(増補版)637E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)

題:(増補版)637E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年1月~1896年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年、スポーツ
・第1回国際オリンピック大会
  近代オリンピック競技大会の第1回大会が、フランス
 のピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、ギ
 リシャのアテネで開催された(1896年4月6日~1896年4月
 15日)
  開会式は、アテネのパンアテナイ競技場に5万人の観
 衆を集めて行なわれ・・参加国は欧米先進国の14か国だ
 った。
  選手は、男子のみで280人で、古代オリンピックと同じ
 ように女子禁制の大会だった(参加人数241人説あり)
  実施競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェン
 シング、射撃、自転車、テニスの8競技43種。
  ヨットも予定されたが悪天候のため中止になった。
  ウエイトリフティングは、体操の一種目として実施さ
 れた。
  観衆に人気の陸上競技は、アメリカが圧倒的な強さを
 発揮し、全11種目のうち9種目において優勝した。
  ギリシャの財政事情によって金メダルは無く、優勝者
 には銀メダルが、第2位には銅メダルが、第3位には賞状
 が授与された。
  記録は、100メートル陸上競技男子は12秒0で、アメリ
 カのトーマス・バークが優勝した。
  金メダル獲得数、アメリカ(11)、ギリシャ(10)、
 ドイツ(6)、フランス(5)、イギリス(2)、ハンガリ
 ー(2)、オーストリア(2)、オーストラリア(2)、デ
 ンマーク(1)、スイス(1)、混合チーム(1)
  オリンピック賛歌は、この第一回アテネオリンピック
 で演奏されたもの・・スピロ・サマラス作曲、コスティ
 ス・パラマス作詞
・野球の日本最初の国際試合(1896年5月23日)
  旧制一高ベースボール部対横浜在留アメリカ人が、横
 浜公園での対戦した。
  結果は29対4で、一高の大勝した。
  この時、日本は捕手以外は素手でやった。
  この頃の野球は、雨が降ると蓑笠(みのかさ)を付け、
 頭には白はちまき、腰に越中フンドシ、ワラジばきとい
 ういで立ちであった。
  ある遊撃手が袴(はかま)を着て出場し、「礼節を知
 る選手」と相手チームより絶賛されたが、実際はゴロを
 後逸しないためであった。
  当時、ストライク・ゾーンが三つあり、目から胸まで
 を「ハイボール」、腰までは「フェアボール」、膝まで
 は「ローボール」と言った。
  そして、打者は審判に向かい「余はハイボールを欲す」
 と予告し、そこに球が来なければ「ボール」になった。
  「相手の弱点を狙わず。欲するものを与えて勝負する」
 のが正々堂々の試合とされたという・・
  尚、大負けしたアメリカチームは、再試合を申し込ん
 で来て、アメリカチームは、アメリカ東洋艦隊の選りす
 ぐりのオールスターチームを結成し、再戦したが、日本
 チームが32対9で返り討ちにして連勝した。
  正岡子規は、この第一高等中学の野球選手だった、そ
 して、1890年に卒業し、帝国大学文科に入学している。
  記録によると(1896年分の外国試合み記載)・・、
  1896年5月23日、在留米国人と横浜で試合して29対4で
   日本が勝利
  1896年6月5日、在留米国人と横浜で試合して32対9で
   日本が勝利
  1896年6月27日、米軍艦デトロイト号乗組員チームと
   向ヶ丘で試合をして22対6で日本の勝利
  1896年7月4日、在留米国人と米軍艦オリンピア号の連
   合チームと横浜で試合をして12対14で日本の負け、
   この試合にはアメリカチームにプロ野球選手のチャ
   ーチが入っていた。
・日本初のボクシングジムができる。
  米国帰りの元柔道家・齋藤虎之助とジェームス北條の
 2人が、横浜市石川町に日本初のボクシングジム「メリケ
 ン練習所」を開設した。
  そして、1902年に、横浜山手公会堂(パブリックホー
 ル)でボクシングの試合が行われた。
  そのことを時事新報は・・
  「目下横浜市山下町グランドホテル滞在中なる拳闘家
 スラヴィン氏と同市喜楽座に演芸中なる怪力家ルシフア
 ー氏との拳闘仕合は既報の如く愈々本日午後五時三十分
 より同市山手町パブリックホールに於て開会せらるゝ筈
 にて、当夜は本邦駐在英国公使マクドナル氏も見物する
 由」
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1896年、伝染病
赤痢が大流行をして、全国の死者数が22,356人となる。
 志賀潔は、この翌年の1897年12月25日に、苦心して赤痢
 の病原菌を発見した。
・腸チフスが流行し、死者数が9,174人となる。
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1896年、天変事変
・明治三陸地震・大津波、死者2万人(1896年6月15日)
 午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜
 石市)の東方沖200kmの三陸沖(北緯39.5度、東経144度
 を震源として起こった。
 マグニチュード8.2~8.5の巨大地震
  更に、地震に伴って、東北地方太平洋沖地震前まで本
 州における観測史上最高の遡上高だった海抜38.2mを記録
 する津波が発生し、甚大な被害を与えた。
  (参考)津波の遡上高:陸を駆け上って到達した高さ。
  (注意)この地震は、震度分布に基づいて長らくマグ
     ニチュード7.6とされてきた・・しかし、津波
     大きさを考慮して数値が改められているた「理
     科年表 平成18年」
  大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7
 分に記録された。
  遡上高は、気仙郡吉浜村(旧:気仙郡三陸町吉浜、現:
 大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、
  同郡綾里村(旧:気仙郡三陸町綾里、現・大船渡市三
 陸町綾里)で21.9m、
  綾里湾の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日
 本の本州で観測された津波では当時最も高い遡上高であ
 る海抜38.2mを記録する。
  この時、ハワイへも2.4m~9.14m、カリフォルニアに
 2.90mの津波が到達している。
  ハワイでは波止場が破壊され、住宅の複数棟が流失し
 た(カリフォルニアの被害記録はなし)
信濃川の堤防各所が決壊した(1896年7月22日)
  信濃川の洪水として有史以来の過去最大規模。
  破堤地にちなんで「横田切れ」と呼ばれている。
  破堤してから21日後でも、新潟市新通は、まだ浸水し
 ていた。
  長岡市中之島は、浸水が引かないため堤防上に小屋を
 建てて生活する人も居た。
  「横田切れ」による被害は、死者43名、浸水家屋43684
 戸、浸水耕地58254ヘクタール。
  新潟市から長岡市のほぼ全域が浸水する大水害だった。
  この後、原田貞介が大河津分水工事改良案を提出し、
 1909年、原田案をもとに、第二期大河津分水路工事が建
 設された。
  難工事で100名以上の殉職者を出しながら、1922年に、
 通水に成功し、2年後の1922年、皆が待望し悲願した完成
 に至った。
  この分水によって、この後、信濃川本流が破堤するこ
 とはなくなった。
  (史料)大河津水位14尺4寸(4.32m)となる。
      各地の被害は・・木津に破堤あり亀田郷は皆
     無作となる・・白根郷では赤渋字赤池の安中542
     の上手が破れ、新築早々の五幣氏宅は根こそぎ
     流される。横田でも破堤し泥海となった(大洪
     水:横田切れ)鷲ノ木の煉瓦水門が損傷し漏水。
  初期の1918年~1941年に、千曲川第一期補修工事が進
 目られていたが、洪水は1年おきぐらいにどこかで起きる
 という状況で、苦労させられていた。
  尚、現在も補修事業は進められている。
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1896年、その他
勝海舟が、明治27年、28年事件の功により金盃一組下賜
 (氷川清話)
勝海舟、老衰につき辞表を奉呈す(氷川清話)
勝海舟、旨を伝え辞表却下される(氷川清話)
・臨時軍事費特別会計終結した。
 日清戦争の臨時軍事費特別会計が編成されたのが、1894
 年6月1日からだったが、1896年3月末日で終結した。
・陸軍を13師団に拡張した。
 陸軍は、師団を6個増設して13の師団・師管を作ることに
 なった。
 この軍備増強のため札幌に陸軍第7師団 が編成された。
 北海道の開拓と警備を担った屯田兵がその基盤となった。
 日本は、北海道を屯田兵が苦労して開拓したのだった。
 初代師団長は永山武四郎。
・広島の大本営が解散した(1896年4月1日)
 1894年8月8日、広島城内にあった第五師団司令部の建物
 が明治天皇陛下の広島の御滞在所とされた。
  陛下は、1894年9月15日から1895年4月27日までの7か月
 間、この地に御滞在された。
 そして、大本営は、戦後処理の終え、この日に解散した。
自由党と政府の提携がなり、板垣退助が内相に就任した。
 第9議会を前に政府との提携を模索していた自由党は、
 1895年11月22日、立憲政体と責任内閣の方針を同じくす
 るものとは相共に連携するとの「宣言」を発表した。
  この宣言は、藩閥、とりわけ伊藤博文との提携があり
 うることを示した。
  伊藤首相は、これを受けて閣僚を集めて演説を行った。
  自由党の方針は、内閣と同じく立憲政体の完成にあっ
 て、「譲るべきは譲り」「相共に謀るべき」であると主
 張した。
  そして、両者の提携の必要を訴えた。
  自由党は、第9議会に与党として臨み、1896年4月2日に
 は、板垣退助が離党の上、内相として入閣した。
・第25代アメリカ大統領のウィリアム・マッキンリーが、
 大統領選で勝利した(1896年11月3日)
  共和党ウィリアム・マッキンリーが、民主党のウィ
 リアム・ジェニングス・ブライアンを破った。
  歴史家達は、この選挙をアメリカ史の中でも最も劇的
 な選挙戦の一つと見た。
  ブライアンより10倍もの金を遣ったマッキンリーだっ
 た。
  また、マッキンリーの共和党選挙対策本部長マーク・
 ハンナは、350万ドルの予算に裏付けられた多くの近代的
 選挙技術を発明して実行した。
  ブライアンは36歳であり、ブライアンの演説は非常に
 劇的だった・・主要政党に大統領候補に指名された者と
 しては最も若いものだった。
  多くの実業家や銀行家は、ブライアンの人民主義的言
 葉遣いや金本位制を終わらせることを支持していること
 を恐れていた・・故に、資金集めに苦労する。
  マッキンリーは、南北戦争の退役兵だった。
  マッキンリーと共和党は、金本位制アメリカの経済
 には必須だと言った。
  共和党は、ブライアンの顔が書かれた偽1ドル札を印刷
 することまでして、ブライアンを揶揄した。
  ブライアンの資金力は10分の1だった。
  ブライアンの魅力は、背の高いことと、人を魅了する
 雄弁術の演説であった・・信念と情熱を表現した・・彼
 を見るため莫大な群衆が集まった。・・南部や西部では
 支持者がパレードをし示威行動をして出迎えた。
  これに対しマッキンリーはオハイオ州の自宅前で、「
 玄関前」選挙運動を行なった。
  金の勢いで、有権者を自宅前に列車で連れて来た。
  有権者集団は歓待された・・その集団へ向かって演説
 がなされた。
  そして、マッキンリーの代わりの国内遊説者を、国中
 に旅させた・・そして、ブライアンを危険な急進者と貶
 (おとし)めさせた。
  ブライアンが、もし選挙に勝てば、工場は閉鎖し労働
 者は職を失うことになるという張り紙を張ったりした。
・神戸でキネトスコープ(のぞき眼鏡式活動写真)の上映
 が始まった(1896年11月17日)(11月25日説あり)
  シネマトグラフよりも先に、エジソンが発明したキネ
 トスコープが1896年に渡来した。
  これは覗き眼鏡式の動画再生装置であるので・・、
  一度に、複数の者が、スクリーン上の動画を共有する
 という今日の上映スタイルからすれば、まだ、映画では
 ないとされるが、人によってはこれを日本映画の歴史の
 はじまりとしている。
  特に、その初公開の場所が神戸神港倶楽部であり、昭
 和38年に「12月1日」を「映画の日」としたのは、11月25
 日にキネトスコープが、神戸で一般公開されたのに因ん
 でのこと・・
日本銀行本店が竣工した(1896年2月29日)
  設計:辰野金吾
  そして、永代橋のたもとから、新築された東京都中央
 区日本橋本石町へ移転した。
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  (今日の言葉)
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  題:スエズ運河パナマ運河も・・特定の国の利権の
   ために使われた・・
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紀元前20万年頃~紀元前19万年、ホモ・サピエンス(現在
 のヒト)が出現した。
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紀元前12万年、デニソワ人の旧人が日本列島に居た。
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紀元前12万年前、島根県出雲市の砂原遺跡
  砂原遺跡の前期旧石器などの遺物が発見されている。
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紀元前10万年頃、現代人(ホモ・サピエンス)が、アフリ
 カを出て、世界各地に拡がった。
  日本列島での人類の足跡は、9〜8万年前(岩手県遠野
 市金取遺跡・中期旧石器)に遡(さかのぼ)る。
  現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前にアフリ
 カを出発した(別説)
.
紀元前7万年~紀元前1万年、ビュルム氷河期
  この時、ヨーロッパは氷の中だった。
.
紀元前7万年、ヒトが、衣服を着るようになった。
.
紀元前6万年~紀元前5万年、アフリカを出た私たちホモ・
 サピエンスの祖先は、6万年前〜5万年前頃には、東アジ
 アにまで到達していたと考えられている。
.
紀元前6万年~紀元前4万年、大陸と地続きだった日本列島
 に、あらゆる方向から人類がやって来た。
.
紀元前5万年、ホモ・サピエンスが全地球的な拡散をはじめ
 たのは、今から5万年前頃であった(別説)
.
紀元前5万年、日本の遺跡・竹佐中原遺跡
  長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
  この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が
 出土した。
.
紀元前4万年、この頃になるとこのホモ・サピエンスがアジ
 アへ到達する。
  大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷期・間氷
 期の氷床の拡大・縮小による海水準変動に伴って、海岸
 線の位置が移動した。
  更新世の後期では、海水準にして百数十メートルの変
 動があった。
  海水準が低下した時期は、現在、浅い海である海域の
 多くが陸地となっている。
  また、日本列島は、氷床によって大陸と陸続きだった。
  完全に渤海は氷床に埋まり、また、黄海も完全に氷床
 に埋まり、東シナ海も北半分は氷床に埋まっていた。
  また、対馬海峡も氷床で埋まり、台湾も大陸と氷床で
 埋まり地続きだった。
  人類は、容易にこの氷床上を歩いて日本に渡って来れ
 た。
  また、樺太と大陸は地続きで、樺太から北海道、本州、
 四国、九州は、氷床があり歩いて渡れる状態にあった。
.
紀元前4万年、研究者の多くは、4万年前頃に、旧石器時代
 の遺跡が急激に増えることから、現代人につながる人々
 が少なくともこの頃に日本で暮らしていたと考えている。
.
紀元前4万年、日本へアフリカから出発した人類が到達した。
  そして、共通の祖先を縄文人とする日本人が形成され
 て行った。
  アイヌも沖縄も「同じ共通の日本人の祖先を持つ」と
 証明されている。
  政府が、アイヌを日本人の祖先と議決したことは大間
 違い。
  「是非、訂正の議決を再度する様に提言する」。
  現代にいたる4万年という長い年月、この人類は日本列
 島を縦横無尽に行き来し、交雑し、日本人を形成して行
 った。
  この交雑の仕方に少しづつ差異はあるものの、アイヌ
 を含む沖縄の人びとも縄文人としての共通の祖先を持つ
 人種と証明された。
.
紀元前4万年、こんなに遠い昔に・・日本人は日本列島にや
 って来た・・
  ウルム氷期と言われる約7万年前~1万年前のこの氷期
 の中の紀元前4万年に、日本人は日本列島に来た。
.
紀元前4万年~紀元前1.5万年、モンゴロイドの人々がアメ
 リカ大陸へ渡った。
     ・
     ・
紀元前3世紀~紀元前2世紀頃、この頃の弥生時代早期の新
 町支石墓群で、弥生人縄文人は融合したことが確認さ
 れた(争っていたのではない)
  福岡県糸島市の新町支石墓群(しせきぼぐん)。
  玄界灘の入江、引津湾の砂浜に営まれた弥生時代早期
 ~前期の墓地で、1986年度の発掘調査で、支石墓や甕棺
 (かめかん)墓など57基が確認された。
  支石墓は、墓穴を覆う大きな上石を数個の石でテーブ
 ル状に支える朝鮮半島の墓制で、水田渡来期の九州西北
 部に分布する。
  副葬品にも、半島系遺物が多いことから渡来人の墓だ
 と理解されていたが、ここから見つかった人骨は、低顔
 (丸顔)、低身長で抜歯痕がある縄文系だったことが驚
 きもって発表された。
  「この遺跡の発見を契機に、弥生文化は、渡来人が縄
 文文化を駆逐したのではなく、渡来人と稲作を受け入れ
 た縄文人との融合によって成立したと見れることになっ
 た」。
  ただ、この融合に至る過程で争いのあった痕跡もある。
  そして、融合に至った。
  この新町支石墓群は、2000年に、国の史跡に指定され
 た。
  ちなみに、弥生時代の終わりは3世紀。
     ・
     ・
1650年頃、イギリスは、一度、共和国になった。
  その時、王室は?
  (イギリス王室の上に君臨するデンマーク王室)
  スペインは、何度も共和国になった。
  王室は、その都度、有為転変が激しかった。
  20世紀だけでも、何度か共和制になった。
  それ以外(ベルギー王室、オランダ王室、スウェーデ
 ン王室、ノルウェー王室)は、歴史が短い(せいぜい150
 年~170年、そして、その由来が、公爵や伯爵などから成
 り上がった王室)。
  イギリスとデンマークは、男子優先を断固として変え
 ていない。
  女帝は多くおいでになっても、明白に『中継ぎ』に徹
 しておられた。
     ・
18世紀、オーストラリア(シドニー湾)に上陸したキリス
 ト教徒のイギリス人は1200人で、すべてが囚人だった。
  この後、オーストラリアは、イギリスの政治犯やコソ
 泥などの囚人が、宗主国イギリスの国から送られる流刑
 地としての歴史が始まる。
  当時、オーストラリアには、先住民のアポリジニの方々
 が、推定で100万人が生活していた。
  しかし、南米・中米・北米メキシコ、および、それら
 の離島で繰り広げられたキリスト教徒スペイン人と、同
 行したキリスト教聖職者らによる殺戮・全滅の愚行と同
 様なことを、この地・オーストラリアにおいても、キリ
 スト教徒イギリス人は行なった。
  100万人が居ただろうという先住民アポリジニの方々は、
 またたく間の内に、このキリスト教徒イギリス人に虐殺
 され、駆逐されてしまった。
  狩猟でもやる様に、アポリジニの方々は撃たれ、殺さ
 れていった。
  先住民のアポリジニの方々は、4万年前、一説で、6万
 年前から住んでいて、立派な先住権があったが、まった
 く無視され、先祖代々の土地は奪われてしまった。
  キリスト教は、古い歴史の史料に、アフリカ黒人を「
 人とは見ない」というキリスト教聖職者の言葉が残され
 ているが、キリスト教の判断基準・教義からこのオース
 トラリアのアポリジニの方々の人権も無視された。
  今、約1900万人の人口のオーストラリア。
  その95パーセントは、アングロサクソン(コーカシア
 ン)で、アポリジニの方々は、その中の1パーセント(
 19万人)にも満たない。
  3分の2以上ものアポリジニの方々は、当時、殺戮され
 た。
  今、不毛の砂漠地帯に追いやられている。
  環境の悪さから、平均寿命が白人より20歳も短い50歳
 であり、失業率も白人の4倍以上と悲惨な状況となってい
 る。
  是非、「日本を捨てて、日本を知った」林秀彦著をお
 読みください。
.
1808年、スペイン国内に反乱が起きた。
  イギリスは、先行しているスペインを乗り越えたかっ
 た。
  また、同様に、イギリスには、乗り越えたい国にオラ
 ンダがあった。
  イギリスは、太平洋ではオランダを意識し、また、南
 アメリカではスペインと戦い、対立した。
  南米は、まだ、スペインの勢力圏だった。
  しかし、1808年に、スペインに国内反乱がおきると、
 スペインの国力は衰微し、衰弱した。
  そして、南アメリカの国々が次々と独立した。
  19世紀の初め、ボリビア、コロンビア、エクアドル
 ベネズエラ、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグ
 アイなどが独立した。
  そして、この頃、太平洋では、オランダが、インドネ
 シアの植民地の方々に対して、「強制栽培制度」という、
 オランダに都合の良い有利な農奴的な植民地支配をして、
 搾取政策で虐(しいた)げていた。
  インドネシアの方々は苦しめられていた。
  オランダにとっては、着々と植民地の収穫が上がると
 いう状況だった・・その分、インドネシアの方々は苦し
 んだ(これを助けに行くのが日本だった)。
  イギリスは、この時、中国(支那)で儲けたいという
 触手を伸ばして行く。
  そして、1840年~1842年に、アヘン戦争をけしかけた。
  また、1856年~1860年には、第二次アヘン戦争(アロ
 ー戦争)を卑劣にも仕掛け、何度も戦争を仕掛けた。
  そして、その度に、イギリスは利権を拡大し、勢力圏
 を拡大していった。
  そして、南アメリカには、スペインの勢力圏から逃れ
 て独立した国々があった・・残ったのが「キューバ」と
 「プエルトリコ」だった。
  この時点で、スペインの勢力を、また、権力を、もう
 一度、復活させようとする動き・・取り戻したいという
 活動が始められた。
  利害が一致するヨーロッパ諸国は、スペインに同調し、
 協力した。
  「独立などもってのほかだ」と南米諸国を元のスペイ
 ンの植民地状態に戻そうという反動が起きた。
  この時に、アメリカは黙っていなかった。
  この南米の地は、アメリカの利権が働く地で、勢力圏
 だと主張した。
  1823年、アメリカが「モンロー宣言」を発した。
  アメリカのジェームズ・モンロー大統領は、教書で「
 アメリカ大陸は、南も北もヨーロッパから独立した別天
 地だ」・・
  「ヨーロッパの干渉などは受け入れられない」と宣言
 した。
  このアメリカに同調したのが「イギリスだった」。
  アメリカとイギリスは利害が一致した。
  イギリスは、南アメリカ諸国を独立させた形で、スペ
 インから自由にさせて、自分の貿易相手国としたかった。
  ここへ、ロシアが迫って来る。
  シベリアに達したロシアは、アリューシャン列島から
 アラスカへ、そして、アメリカ大陸へと南下して来た。
  1588年、イギリスは、スペインの無敵艦隊を撃破して
 いて・・スペインの没落は始まっていたが・・南アメリ
 カからも衰退して行った。
  大西洋の勢力を失ったスペインは、まだ、太平洋では、
 マーシャル群島、カロリン群島、フィリピンなどを持っ
 ていた。
  1891年、日本は、硫黄島を領土に編入しようとした。
  この様な日本に、スペインは反対した。
  この時、日本は、尖閣諸島も領土に編入した。
  こちらは、どこの国からの異議は無く、何の問題も無
 く尖閣諸島の日本への編入は行われた。
  中国(支那)の清も何も異議を言わなかった・・当然
 という態度だった。
  「日本の領土だと記した中国(支那)の史料」も存在
 するくらいだ。
  硫黄島も、イギリスやアメリカとの意見のやり取りが
 あったが、「日本の領土が正当」となった。
.
1827年アメリカ政府が、1830年代に、小笠原諸島にアメ
 リカ住民ぞ送り込んだ。
  この行為に対し、イギリスが、アメリカに抗議した・・
 「小笠原諸島は、1827年に、イギリス人のティーチェ大
 佐という者によって占領済みだ」と。
  しかし、これも大間違いだった。
  このイギリスの言う1827年より遠い以前、230年以上も
 以前の1593年に、この小笠原諸島は、日本人の小笠原貞
 頼によって発見されていて、既に、日本の領土となって
 いた。
  小笠原定時は、小笠原の地に「日本領」の標識まで建
 てていた。
  アメリカは、この事を知っていて、イギリスにこの事
 を知らせ、了解させ・・この様な経緯もあって、小笠原
 は日本の領土となっている。
  しかし、ユーラシア大陸アムール川の流域や、樺太
 を探検した日本人探検家の間宮林蔵の事実は、ロシアは
 無視している。
  間宮林蔵は、何度も樺太などを探検し、樺太が島であ
 ることさえ発見している。
  この地は、実際は、日本の領土なのである。
.
1850年代、イギリスで「蒸気船」が発明された。
  それまでの「帆船」で、極東の日本に来るのは大変だ
 った。
  また、スエズ運河パナマ運の無い時代、アフリカの
 南端の喜望峰を回る以外、日本に至るルートは無かった。
  風待ちなどもあり、「極東」の名の通り極めて遠い日
 本だった。
  しかし、蒸気を動力として極めて自由な意思で日本に
 やって来ることが出来るようになった。
  日本の近海に、この期から頻繁に外国船が現れる様に
 なる。
.
1869年、スエズ運河が開通した。
  この恩恵を最大に受けたのがイギリスだった。
  この恩恵を最大に発揮させて、イギリスは、中近東を
 押さえ、インドを押さえ、チベット・ネパールを押さえ、
 ビルマ、オーストラリア、ニュージーランドなどを押さ
 えた。
  重要拠点のほとんどを、イギリスは押さえた。
  アメリカは・・出遅れた。
  植民地主義者の狡猾な侵略が始まった。
  この後、遅れて来たアメリカの帝国主義的な利権獲得
 のうごめきが始まる。
  これが戦争を起こさせる。
  また、残っている部分があった中国に、アメリカの自
 己主張が始まる。
  スエズ運河のような「アメリカの利権獲得、そして、
 利権拡大の運河」・・それはパナマ運河の開通を考えた。
  卑劣な画策の後、1914年、パナマ運河は開通した。
  スエズ運河から遅れること45年だった。
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1944年、第二次世界大戦の帰趨が、連合国側の勝利で確定
 し始めるのに応じて、ユダヤ人難民問題が表面化し始め
 た。
  1944年末頃、ユダヤシオニズムとイギリスが、「マク
 ドナルド白書」をめぐって対立し始めた。
  ベングリオンは、ナチスの迫害によって生じた10万人
 のユダヤ人難民のパレスチナ移住を求めたが、イギリス
 政府の管掌する委任統治政府は受け入れを拒否した。
  ハガナーが救出したユダヤ人難民達は、パレスチナ
 キプロスの難民収容所に押し込まれてしまった。
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1946年5月、第二次大戦後、パレスチナを調査していた米英
 合同調査委員会が、現地を視察し、ナチ・ドイツの迫害
 を逃れたユダヤ人難民10万のパレスチナへの即時受け入
 れを勧告したが、イギリスのベバン外相は、現地での抵
 抗は必死として反対した。
  ベバンは、「アメリカは、ユダヤ人を入国させたくな
 いのでパレスチナへの移住をすすめている」と拒否した。
  この頃、すでに、ユダヤ人の国家基盤は労働総同盟や
 ユダヤ基金ユダヤ機関を中心に、ほぼ完成していた。
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2006年、エマニュエル・トッド氏へ、2006年の朝日新聞
 インタビューにおいて、
  「核兵器は、偏在こそが怖い」。
  「広島、長崎の悲劇は、米国だけが核を持っていたか
 らで、米ソ冷戦期には使われなかった」。
  「インドとパキスタンは、双方が核を持った時に和平
 のテーブルについた」。
  「中東が不安定なのは、イスラエルだけに核があるか
 らで、東アジアも中国だけでは安定しない・・
  日本も持てばいい」・・と述べ、日本の核武装を提言
 した。
  さらに、トッドは、ドゴール主義的な考えだとして、
 「核を持てば、軍事同盟から解放され、戦争に巻き込ま
 れる恐れはなくなる」と指摘した。
  被爆国である日本が持つ核への国民感情については、
 「国民感情はわかるが、世界の現実も直視すべきだ」と
 した。
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2012年2月、NHKの編成局ディレクターが、大麻所持で
 逮捕された。
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2013年9月、韓国で、旭日旗を法律違反とする法案が出され
 た。
  旭日旗など「日帝を象徴するもの」関連法案は、2013
 年9月発議されたが、19代国会の任期満了で廃棄された。
  当時、ソン・インチュン、セヌリ党議員が、日本帝国
 主義の象徴を使用する者に対し、1年以下の懲役、または、
 300万ウォン以下の罰金に処する内容の刑法改正案を出し
 た。
  しかし、改正案は、発議はされたか、2015年12月4日、
 所管常任委員会の法制司法委員会の法案審査制1小委員会
 にてやっと上程された後、他の法案が優先され、まとも
 に議論されなかった。
  法司委の検討報告書は、改正案について「憲法上の表
 現の自由を制限する側面はあるが、憲法第37条第2項の規
 定により国家安全保障・秩序維持又は公共福利のために
 (旭日旗を)制限することはできる」とし、立法者の判
 断に応じて旭日旗の禁止は、可能な立法だと評価した。
  ただし、刑罰に関する法律であることから、法条項文
 句が明確性の原則を厳格に遵守しなければならないと指
 摘した。
  また、刑法の「属地主義」の原則に基づいて、(刑法
 を改正した場合)日本人が国内で旭日旗など日本帝国主
 義の象徴を使用した場合にも、刑法第2条の規定により処
 罰の対象となる点も考慮する必要があると説明した。
  一方、旭日旗は、日本の自衛隊の公式の旗として使用
 されているだけに、全面的に禁止する法が作られた場合、
 日本との外交摩擦を避けることができないという指摘も
 ある。
  国交を結んでいる相手国の旗の使用に対する罰則規定
 を置くなら、必然的に外交紛争化するだろう。
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2016年、日本人の平均寿命・・男:80.98歳、女:87.14歳
  参考に・・
  1947年、男:50.06歳、女:53.96歳
  未来の2060年、男:84.19歳、女:90.93歳、
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2017年3月7日、中国の鉄鋼の減産・・
  中国の鉄鋼の大生産が世界を大きく狂わせた。
  土俵から出されると負け・・相撲のルールである。
  出されても、また、自分から出ても相撲は負けという
 ルールである。
  そのように「相撲は、その様にルールを決めているか
 らである」。
  しかし、「土俵から出ても負けではない」という輩が
 現れたらどうなるのか?
  話は、がらんと変わるが、日本の製鉄業のトップの新
 日鉄が、過去に「とっておきの技術」を、中国へ教えた。
  その様なとっておきの『マル秘技術』を、果たして中
 国に教えて良いのか?
  この懸念が日本にあった・・が、しかし、種々の工作
 から、日本は教えなければならない羽目に陥(おちい)
 った。
  その技術を得た後の中国は、オーストラリアから、び
 っくりするほど大量の鉄鉱石を買った。
  国としてやる中国のやり方は、桁違いに大きかった。
  売る方も喜んで中国という国へ売った。
  世界の景気も良くなった・・が・・
  その鉄鉱石を運ぶ海運業界も潤った・・が・・
  しかし、数年後に・・中国に大量の鉄鋼製品の山の在
 庫で積み上がった。
  大停滞の時がやって来た。
  2017年3月7日の読売新聞は報じる、「中国、鉄鋼5000
 万トン減が目標」。
  「2017年の生産能力、2016年6500万トン減」とある。
  中国の過剰生産で余った鉄が海外に輸出され、世界の
 鉄鋼価格は不安定な値動きが続いた。
  それも・・長い・・長い期間、この様な状態に低迷し
 た。
  長期的に見れば、新日鉄は、自分の首を絞めていた。
  そして、その行為が、世界中の鉄鋼業界をこの様な状
 況に貶(おとし)めた。
  ルールを知っていても・・知らない振りして中国がや
 ったことだった・・ルールを破る中国がやった事だった。
  恩も義理も知らない中国、新幹線でも、日本に、後ろ
 足で砂をかけている。
  新聞は、中国の対応が「実効性が疑われている」と、
 「その様なデーターがある」と報じている。
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2017年3月18日、中国の資本規制、日本企業に影 海外送金
 ストップ続出(日本経済新聞
  中国の通貨である人民元と外貨の双方で国境をまたぐ
 取引を抑える中国の資本規制が、日本企業の活動に影を
 落とし始めた。
  現地事業の売却代金を受け取れなかったり、日本への
 送金が止まったりする例が続出。
  ごく一般的な資金管理すら難しくなっている。
  中国は、2016年に円換算で30兆円超が国外に流れた。
  当面は規制を優先せざるを得ず、習近平政権が掲げる
 人民元の国際化は揺らいでいる。
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2017年10月、アメリカで、60人におよばんとする大変多く
 の方々が、銃の乱射に合い亡くなられるという、なんと
 も痛ましい事件が起きた。
  この様な事件を起こした犯人・・どの様な経緯で、こ
 の様な想像もできない様な極悪の行為に及んだのか?・・
  この行為を・・最高に恨む。
  しかし、必ず、この行為に至る原因があった訳だ。
  何が、此奴(こやつ、この犯人)に、この様な極悪行
 為をさせたのか?
  例え、それが分かったと言っても、可哀想な亡くなら
 れた方々は戻っては来ないけれど・・しかし、再発しな
 いようにと願って、この犯人の大犯罪に至る原因は何な
 のだろうかと考えることは必要な事である。
  此奴には、当然、この様な大惨事を起こす肯定的理由
 になり得る訳があったのだろう。
  一般人には、当然、肯定的な理由になり得ない
  その理由があったのだろう。
  どんな理由があっても、勿論、当然、他人の方々の命
 を一人であってさえも、当然、奪う行為の肯定的理由は
 ない。
  「(キリスト教の)神の義があるなら・・」という前
 提で肯定するという低劣なキリスト教の教義があるが、
 この教義でさえ『肯定できる理由では、まったくない』。
  (キリスト教は、この教義で、何人の人々を殺戮して
 来た事か??・・)
  社会を見た時、このキリスト教の最悪教義の様に、こ
 の犯人の行為の様な行為を「誘発するようなことがある」。
  社会の中に、この様な行為を起こす因子が存在する。
  ヨーロッパでは、子供たちが集団で、突然、憑依(ひ
 ょうい)した実例がある・・
  それに似た「その様な行為」が、日本でなされている。
  ヨーロッパのこの実例は、一度ならず、また、あちこ
 ちの国で繰り返し起きていた。
  キリスト教が原因として起きていた。
  子供たちは口々にキリスト教のことを口走って罵った。
  魔女が天を飛び回っている・・などと、口走った。
  子供たちが、自分の心を制御できずに、行動も制御で
 きずに、制御できない状態で行動を起こしたのだった。
  今、日本で行われているキリスト教の祭り=ハロウィ
 ンがこの要因として挙げられる。
  奇怪な姿をして街中を徘徊する・・
  ハロウィンは長い期間に渡って心をむしばむ。
  長期間の内に、特に、感受性の強い子供たちをむしば
 んで行く。
  喜んでいる子供たちばかりではない。
  また、常に喜んでいる子供たちではない・・、急に、
 心が変化したりする・・憑依する怖さがある。
  日本政府内のある役所が音頭を取って行っている。
  経済的効果があるからとして・・行なわれているが・・
 経済的利益のためにやらせているという話では済まない。
  しかし、そのために、あの気持ちの悪いハロウィンの
 祭りに、そして、展示に、あちこちで出くわす。
  キリスト教という特定宗教の「巧妙なる伝道行為」に、
 日本の役所が加勢している。
  この政府の行動は、国際規約のISO26000の違
 反となっている。
  結局、ストレスの多いハロウィン祭りに、長い期間、
 出合い、向き合い、耐えなければならない状態に置かれ
 ている。
  ストレスが何かと多い現代社会の日本、『どや顔』が
 良いのだと、「どや顔」の嫌な顔がおおやけの中に表示
 され続けている・・その様な巷となっている。
  結局、この変で嫌な「どや顔」にも耐え続けなければ
 ならない状況になっている。
  結局、この様な心のストレス社会で、「アメリカの不
 幸な事件は起きてしまった」。
  ハロウィンの『儲けだけの商行為』はおかしい??
  長期間に渡って行うということも「たちが悪い」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/