(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

題:(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
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1896年3月1日、大隈重信が進歩党を結成した(~1898年6月
 20日
  この日、立憲改進党立憲革新党、大手倶楽部、帝国
 財政革新会、中国進歩党などが合同し・・
  立憲改進党などを中心にして、代議士99名で結成した。
  大隈重信が事実上の党首であったが、正式な役職には
 就かず、形式的には犬養毅尾崎行雄、大東義徹、柴四
 朗(東海散士)、長谷場純孝の5名の総務委員が代表者と
 なった。
  進歩主義に立つことを宣言し、責任内閣の完成と、国
 権の拡張、財政整理を掲げた。
  自由党に対抗して、小政党を合併して組織された政党
 だった。
  1896年9月に、第2次松方正義内閣に大隈重信が入閣し
 進歩党も与党となって、第10議会では金本位制確立のた
 めの貨幣法案を成立させた。
  1898年に、第三次伊藤内閣の成立後、自由党と合同し
 て憲政党に改組された。
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1896年3月1日、第一次エチオピア戦争: アドワの戦い
  イタリア軍エチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦ったが・・
  イタリアのエチオピア征討軍は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀のアフリカは「悲惨な世紀」だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された。
  アフリカの大部分は、ヨーロッパ列強の国々によって
 影も形も無い状態だった。
  アメリカの黒人の方々の棄民目的でリンカーンが造っ
 たアフリカの国=リベリアと、このエチオピアのみが独
 立国であった・・ほとんどの国々が植民地で、蹂躙され
 ていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略が行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのは「メネリク2世」だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃を命じた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退をすれば、追撃をし続けた。
  イタリア軍は8,000名を失った・・また、エチオピア
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結して、エチオピアの当然の独立を承
 認した・・
  『白人の横暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く。
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1896年3月7日、沖縄県に県区制、郡区制が公布され、県下
 を首里区、那覇区と5郡で区分する。
  明治29年勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」に
 より・・、
  島尻郡中頭郡国頭郡宮古郡八重山郡の5郡を設
 置し、宮古八重山に島庁(島司)を置いた。
  また、「那覇市」の前身「那覇区」と、首里市の前身
 「首里区」を設置した。
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1896年3月7日、衆議院議員・立石岐ほか5人は、「鉄道敷設
 上本位軌道採用ニ関スル建議案」を提出した。
  また、市島謙吉ほか4人は、「広軌鉄道ニ関スル建議案」
 を議会に提出した。
  建議案は、特別委員に付託され、3月25日、本会議に
 修正案報告、同修正報告案賛成多数で可決された。
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1896年3月10日、参謀総長小松宮彰仁親王は、閣議決定
 みた台湾縦貫鉄道、ならびに、基隆築港測量費の10万円
 のうち約7万3000円を鉄道建設調査費として支出すること
 を台湾総督に通牒(つうちょう、書面で通知すること)
 した。
  この調査費によって、この年の6月までに、新竹・打狗
 間の予測が終了した。
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1896年3月11日、東海道線大阪駅~西ノ宮駅間が複線とし
 て開通した。
  1869年、政府は、東京~京都の両京を結ぶ鉄道を幹線
 と定め、重視して施策を進めた。
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1896年3月13日、奈良鉄道の玉水駅~木津駅間が開通した。
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1896年3月15日、日本郵船が、欧州定期航路を開設した。
  土佐丸が就航する。
   また、1896年10月には、豪州航路を開設した。
   2年間の激しい競争の末、日本郵船ボンベイ航路は、
  国際的に認められた。
  「近海の海運」から「遠洋への海運」へと事業は拡大
 して行った。
   続いて挑戦したのが・・「欧州航路」だった。
   1896年、日本郵船は、ロンドン支店を設置し、土佐丸
  をヨーロッパに向け出航させた。
   しかし、またしても、欧米の海運会社組織が、既得権
 を主張した。
  復路(東航)のロンドンと、往路(西航)の上海寄港
 を阻止してきた。
  この最大の貨物集積地に寄港できないことは、ビジネ
 ス上の大きなマイナスだった。
  しかし、その相手を刺激すれば、ビジネスそのものが
 できなくなる状況だった。
  屈辱的な条件のもとで、運航を続けた。
  その様な運行状況ながらも、日本郵船は、船隊の拡充
 を進めて行った。
  信濃丸を含む13隻が揃った。
  総トン数で欧州海運会社に匹敵する体制ができあがっ
 て行った。
  この様な立派な体制になっては、対抗相手側も無視で
 きず、日本の海運を対等の競争相手と認めざるを得なか
 った。
  1902年、日本郵船は、欧州極東往航同盟への正式加入
  を果たした・・
  これを契機にして、海外への航路網を飛躍的に伸ばし
 て行った。
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1896年3月16日、陸軍が、6個師団の増設を決定した。
  1871年に、明治政府は、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮
 台、東北鎮台の4鎮台を設置した。
  そして、1873年、2鎮台を増設して、東京鎮台、大阪鎮
 台、名古屋鎮台、広島鎮台、熊本鎮台(旧:鎮西鎮台)、
 仙台鎮台(旧:東北鎮台)の6鎮台を設置した。
  そして、1896年から、軍備拡張によって師団が増設さ
 れ・・、
  明治末には、国内の師団数は18となった。
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1896年3月16日、朝鮮の大院君一派の人々が逮捕された。
  漢城府観察使の金経夏や呂圭亨など数十名が逮捕され
 裁判へ
  1896年2月11日、李氏朝鮮の第26代王・高宗が、ロシア
 公使館へ騙(だま)され、脅されて、逃げ込んで、親露
 政権が作られだが、そして、その結果、ロシアは種々の
 利権を獲得していくが・・
  そして、この日、親日派だとして金允植が流刑にされ
 たり、親日派が殺されたりした。
  この様な状況に怒った民衆が暴動などを起こしたり(
 1896年2月18日)・・
  1896年2月22日、李範晋が、法部大臣兼警務使となり、
 大院君派の粛清を開始した。
  朝鮮国内は荒れていた・・そして、この日、高宗と対
 峙する大院君派が逮捕された。
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1896年3月22日、「生物始源、一名:種源論」立花銑三郎訳、
 経済雑誌社、
  立花銑三郎が、ダーウィンの著作を「生物始源(一名
 種源論)」という題で日本初翻訳をした。
  1000ページを超える大著だった。
  この時、28歳の銑三郎は、学習院嘱託教授であった。
  ちなみに、銑三郎は、夏目漱石の大学予備門時代から
 の同級生だった。
  銑三郎は、1900年、35歳で早世するが、漱石は、1909
 年に発表した中篇「満韓ところどころ」のなかで、銑三
 郎を親しげに「銑さん銑さん」と呼んでいたことを回想
 している。
  銑三郎と夏目漱石は、行く時期はずれたが、共に、ド
 イツとイギリスへ留学している・・
  そして、その翌年の1900年に、遅れて来た夏目漱石
 対面した。
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  (今日の言葉)
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  題:日本人の一般国民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
    シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
    その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされている監禁の状態だった。
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紀元前5万年以上、原人:「ホモ・ルゾネンシス」がフィリ
 ピンで発見される。
  2018年4月11日の読売新聞に・・新「原人」化石、フィ
 リピンに。アジアで5番目・・と報道されていた・・
  以下、その記事の抜粋・・
  フィリピン・ルソン島で、新種の人類の化石が見つか
 ったと、フランスとフィリピンなどの研究チームが発表
 した。
  同島に5万年以上前に生存していた原人とみられる。
  (参考)原人:人類の進化は5段階(初期の猿人、猿人、
     原人、旧人、現生人類)に大別され、その3段階
     目にあたる。
      猿人とは違い、アフリカからユーラシア大陸
     に進出した。
      猿人より脳が増大し、顎や歯が縮小した。
  アジアで発見された第5の原人となり、同チームは「東
 南アジアの島々における人類の進化の複雑さなどを示す
 発見だ」としている。
  論文が11日、英科学誌ネイチャーに掲載される。
  化石が見つかったのは、同島北部のカラオ洞窟。
  歯や手足の骨の化石で、分析した結果、猿人の様な原
 始的な特徴と30万年~20万年前に誕生した現生人類(ホ
 モ・サピエンス〉などに似た特徴が混在し、同時代にア
 ジアにいた他の原人と異なっていた。
  同チームは新種と判断し、「ホモ・ルゾネンシス」と
 命名した。
  化石の年代測定から、5万年以上前に同島にいたとみら
 れる。
  アジアの原人は、中国の北京原人インドネシアのジ
 ャワ原人とフローレス原人、中国の和県人(わけんじん)、
 台湾の澎湖人(ほうこじん)が過去に見つかっていた。
  ホモ・ルゾネンシスの臼歯は極端に小さく、海部陽介
 国立科学博物館人類史研究グループ長は・・身長1メート
 ルあまりのフローレス原人のように「小型化していた可
 能性がうかがえる」と指摘。
  「アジアの島々では非常に独特は進化が起きており、
 他の島でも新種が見つかる可能性がある」と話す。
  ・・以上・・
 (関連事項):
  以上の話の中に、日本の先住民として、アイヌの根拠
 となる話はまったく出て来ない・・また、想像も、まっ
 たくできない。
  それは、アイヌは、それよりズーット後の世の1300年
 代にできたことが科学的に判明していて、分かっている
 からで・・
  アイヌは、まったく先住民ではない・・
  その様なことが分かっていながら、今、日本では、ま
 ったく異常な、非科学的な、また、まったく根拠のない
 「アイヌが日本の先住民族だ」という政治的決議がなさ
 れようとしている。
  今回の地方選で演説していた立憲民主党の女性議員と
 話し合ったが・・
  その論理に、まったく科学的な根拠がなく、ただ政治
 的な動きで「先住民としようとしていることが、はっき
 りわかった」。
  その議員が、「北海道でアイヌは先住民として生きて
 来た」と主張したので・・
  「北海道には、アイヌの人たちより何万年も前から縄
 文人の人たちが居たのですよ。縄文遺跡もいっぱいあり
 ますよ」と教えてあげた。
  「アイヌは日本人なんです」と主張したので・・
  「そうです。しかし、樺太アイヌは日本人ではあり
 ません」と答えた・・
  「私は人類学をやって来た」と主張したので・・
  「そんな看板で話はしないでください」と言った。
  「国連が決めているから」と主張したので・・
  「国連が間違ったことを決める訳がない。国連が間違
 っているのなら、国連に科学的に正しいことを教えてや
 ってください」と伝えた・・
  「アイヌの言語が独特だ」と主張するから・・
  「言語が独特というなら、1例として中米のインディオ
 の方々には160もの言語があるのです。160もの先住民が
 居るという事ですか?」と・・返事が出来ない、答えら
 れない。
  「北海道にはアイヌの地名が一杯ある」と主張するの
 で・・
  「アイヌの地名なら九州にだってあるんですよ」と説
 明する。
  「学者・専門家に言って下さい」と主張するので・・
  「学者にも言っています。今は、間違っている政治家
 のあなたに間違いを説明しているのです」と言った。
  などなど・・最後は、応援演説をしたいのでと言って
 逃げた。
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1836年、合衆国第二銀行の期限が来る・・アメリカの運命
 を決める中央銀行の期限が来る・・
  アメリカに中央銀行を作らせ、この通貨発行権を握ろ
 うと暗躍するイギリスのロスチャイルド家
  そのアメリカの中央銀行を民間銀行として、その株式
 を牛耳ろうとするやり方自体も異常である。
  アメリカの通貨である「米ドル」を発行する銀行を民
 間銀行とするというのも異常であるが、この株式をロス
 チャイルドが牛耳ってしまおうというのも異常である。
  これによって、ロスチャイルド家には、自動的に金が
 転がり込んでくる。
  アメリカは抵抗するが、中央銀行は出来てしまう。
  その最初の合衆国第一銀行も期限が来て閉じられたが・・、
 また、色々な工作が行われて合衆国第二銀行が出来る。
  そして、その合衆国第二銀行も20年の期限が、この年・
 1836年に来た。
  アメリカ大統領のジャクソンは、その期限の来る少し
 前の1832年に、「更新はしない」と、合衆国第二銀行の
 存続の更新を否定した。
  アメリカ国内は、上や下への大激論、激しい攻防が繰
 り広げられた。
  ジャクソン大統領は、頑強に反対し、抵抗し、妥協も
 しなかった。
  そして、期限切れを迎えた。
  合衆国第二銀行は終了し、閉じられた。
  ジャクソン大統領は、暗殺のターゲットになった。
  そして、狙撃された。
  幸い不発だったため、命は助かった。
  中央銀行に反対したので狙われたと言われた。
  中央銀行が無いので、一般の銀行が銀行券を発行して
 流通させた。
  銀行券は何種類も出回った。
  金融を支配する通貨発行権を手に入れたいロスチャイ
 ルド家の目的は、達成されないままとなった。
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1861年4月12日、南北戦争が始まった(~1865年5月9日)
  アメリカの南北戦争の勃発の理由について、イギリス
 のユダヤ系列の首相のディズレーリは言った・・、
  「何故、アメリカを二分する必要があったかというと、
 イギリスのコントロールが効かなくなったアメリカを発
 展させないためだ」・・と・・
  イギリスが、アメリカを二分しようと計画していたと
 いうこの発言を裏付ける話は明らかに色々ある。
  また、因みに、アメリカの南北戦争アメリ北軍
 トップであるリンカーン大統領は、「奴隷解放の父」と
 讃美されているがまったくの嘘で「でっち上げ」。
  後から付け足されたもの。
  「奴隷解放」は・・北軍の「戦争の大義」としてでっ
 ち上げられたものだった。
  リンカーンは、はっきり「私は奴隷制度を廃止しよう
 と思っていない」と言っている。
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1865年4月15日、リンカーン大統領が暗殺される。
  (参考)その直ぐ後の1865年5月9日、南北戦争は終わ
     る。
  南北戦争の時、リンカーン大統領は、戦費の調達に困
 った。
  ロスチャイルドなどの銀行家から資金を借りようとし
 た。
  しかし、ロスチャイルドは、非常に高い利率の利息を
 要求した。
  ロスチャイルドは、24%~36%とひっくりするほどの
 高い利子をリンカーンに要求した。
  リンカーンは、借り入れを断念した。
  ここで、リンカーンは、とんでもないことをした。
  リンカーンは、自分で金を刷ることにした。
  アメリカ政府の信用で、独自紙幣を発行した。
  「グリーンバックス」と言われるアメリ財務省の法
 定通貨だった。
  紙幣の裏を緑色に印刷したので「グリーンバックス」
 と呼ばれた。
  アメリカの最初の法定通貨だった。
  輪転機を動かせば、いくらでも、どんどん金が刷れた。
  戦費を賄(まかな)うのは簡単だった。
  リンカーンは、「打出の小槌(うちでのこづち)」を
 手に入れた。
  イギリスのロスチャイルドらの銀行家は、南軍にも北
 軍にも金を貸して、大儲けしようとしていたが、その目
 論見は「完全に外れた」。
  イギリスの銀行家は、リンカーンを倒したいと思った。
  また、この様な行為を許していたら、アメリカの通貨
 発行権を握ってアメリカを支配するという戦略が崩壊し
 てしまう。
  そして、アメリカが、独自通貨をいくらでも発行する
 ということは、その先にアメリカの繁栄がある。
  イギリスに対抗する国家が出現してしまう。
  イギリスの脅威となってしまう。
  当時のイギリスの「タイムス」紙が社説で報じた・・
  「アメリカの法定通貨が、コストをかけずに供給され
 ている」
  「コストをかけずに通貨を供給できるということは、
 通貨発行銀行である民間の中央銀行に、利子を支払う必
 要が無い」
  「もし、アメリカに起源を持つあの有害な法定通貨
 策が定着してしまえば、アメリカ政府は通貨をコストを
 かけずに供給することになる。そうなると、アメリカ政
 府は債務を完済し、債務のない政府になる。
  アメリカ政府は、商業活動上、必要なすべての通貨を
 所有することになり、文明国の中で史上類のない繁栄を
 謳歌することになる。
  すべての国の人材も富もアメリカ合衆国へ移動してし
 まう」
  「アメリカ政府は打倒されるべきである。
  さもなければ、アメリカ政府は地上のすべての君主国
 を破壊するだろう」・・と。
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1895年、韓国・朝鮮が、それまでの「慕華思想」から「慕
 和思想」に転換した。
  崔基鎬教授は、自著で書く・・
  「1895年、日清戦争終結と同時に、韓国では、それ
 までの500年に渡る慕華思想(中国に対する敬慕)から
 一転して、慕和思想(日本に対する敬慕)に転換した。
  それが、1945年からは、慕華でもなく慕和でもなく、
 他人を尊重する心を見い出す事も至難になった・・と。
  (参考)崔基鎬:チェケイホ、1923年生まれ。
      明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大
      学院教授を経て、加耶大学客員教授
       民間レベルでの日韓関係改善に努め、サハ
      リン在住韓国人の本国往来問題、原爆被爆
      の治療援助、在日韓国人の法的地位向上のた
      めに尽力。
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1899年、アメリカの門戸開放宣言
  アメリカの国務長官ヘイによって提唱された外交政策
  中国の領土保全と門戸開放、商業上の機会均等を主張
 したもので、遅れて登場したアメリカが列強の帝国主義
 競争への割り込みを意図したものだった。
  このアメリカには、一貫した方針が、ズーットあった。
  自国の領土の拡大である。
  アメリカ・インディアンの方々の地であるアメリカ大
 陸の奪取に引き続き・・太平洋の島々を奪い・・フィリ
 ピンを奪った。
  しかし、アメリカが、アジアに到達したときは遅すぎ
 た。
  イギリスが、もう堂々とそのほとんどを植民地とし、
 インドからシンガポールへ至り、また、香港へ至り、中
 国各地に利権を確立させていた。
  ロシアはシベリアに達して、北から中国へ至っていた。
  また、フランスもすでに南から中国へ至り・・もはや
 出遅れているとアメリカは思った。
  そこで発したのが、この中国の門戸開放宣言だった。
  これは、「俺にも美味しい分け前をよこせ」だった。
  日本とロシアがぶつかった日露戦争において、アメリ
 カは日本を応援した。
  これは、ロシアが退くことがアメリカにとって都合が
 良かった。
  だから、日露戦争が、日本の勝利で終わると、アメリ
 カは手のひらを返したように、今度は、日本と対抗する
 ような態度になった。
  ここが始まりとして、日本はアメリカと戦争をするよ
 うにされて行く。
  だから、アメリカは、日本と対抗することを前提とし
 て行動を続けて行った。
  日本はぎりぎりまで戦争回避に努めた。
  しかし、アメリカは、日本を追い込む手を緩めなかっ
 た。
  アメリカは、日本との開戦への路線をひた走った。
  アメリカは、中国の上海から中国浸透を企てた。
  キリスト教宣教師を利用する手をこうじた。
  中国での利益確保の先兵としてキリスト教を利用した。
  中国人留学生向けの予備校を作った。
  「精華学園」と言った。
  それと共に「日貨排斥(日本商品ボイコット)」を支
 援して、日本の貶(おとし)めと排斥行為を燃え上がら
 せた。
  キリスト教宣教師は、反日のスパイとして行動した。
  また、蒋介石の国民政府の手先となった。
  でたらめ情報のプロパガンダを盛んにした。
  これは、戦後の東京裁判までも影響するほどの嘘宣伝
 工作だった。
  アメリカは、満州の権益を欲しがった。
  この時、特に、日本が居る事を邪魔だと感じるアメリ
 カだった。
  アメリカは、日本排除へ武力行使を始めた。
  フィリピンやグアムを軍事拠点として、イギリスやオ
 ーストラリア、オランダと一緒になって南太平洋を取り
 囲むように、日本を包囲し、締め付け、また、攻撃態勢
 を作った。
  アメリカは、日本に対して威嚇的になった・・また、
 強圧的になった。
  日本が先に手を出したように見せかけの中で、実際は、
 陰で隠れてアメリカが先に武力行使をしていた。
  アメリカが、真珠湾攻撃前に日本を攻撃している事実
 は、今時点では確定されている真実である。
  「あれはボランティアだ」と言い訳するが、大統領の
 命令書があることが確認されている(アメリカ公文書
 にその書類がある)
  この様に、アメリカは挑発行為を行った。
  中国から日本への大爆撃まで計画していた。
.
1910年8月29日、日韓併合
  「韓国併合に関する条約」が日本と大韓帝国との間で
 調印がなされた。
  この条約は、日本が求めてなされたのではない。
  イギリス・アメリカ・ロシアなどから、「韓国は独立
 してやって行けない。日本が統治した方が良い」と薦め
 られた。
  植民地ではない。
  日本が保護し統治しなければ「駄目な国と国際的に見
 られていた」。
  その様な経済レベルの国だった。
  また、社会資本もまったく整備されてない国だった。
  日本は、膨大な資金を投資して、朝鮮・韓国の「国造
 りをしていく」。
  その恩ある日本に対して、韓国は、今になって御礼を
 言うどころか、恩ある日本を貶める行為をしている。
  この様な態度が取られるのであるなら「併合という形
 ではなく、ただの保護国という形にしておけば良かった」
 と言える。
  必死に日本の資金を投入して、日本並みの国にして上
 げようという奉仕をしなければ良かったと思う。
  良い国になりたいなら「自分たちで努力しなさい」と
 いう立場で居た方が良かった。
  「ただ、軍事的には守ってやりますよ」で充分だった。
  その他の事は、何もしなけれは良かった。
  沢山の金を投入して「教育環境を整えたり」「農地を
 調整して食糧増産をしたり」「裁判制度などの社会基盤
 を充実させたり」「鉄道や道路の建設を一生懸命にやっ
 たり」「帝国大学や小学校などを、沢山、造ったり」、
 色々、手を尽くしてやったが、何の有り難みも感じない
 国・・そんなことをしてやる様な相手国ではなかった。
  この様に感謝もしない国には、今後、何もしてやる必
 要はない。
  挙げ句の果てに、日本の領土の「竹島」まで盗ってし
 まった。
  国際司法裁判所で話し合いましょうと言っても、「韓
 国は敗ける」と分かっているから、その話に応じようと
 もしない卑怯な態度をとっている。
  日本領の竹島の不法侵犯をしている。
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1920年代、アメリカは、民主主義国家だは、作られた幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込みだ。
  「金」と「情報」を使って操作されている・・この様
 な事は、1920年代に、リップマンやバーネイズは、「ア
 メリカの民主主義の幻想」に気付いていて、「錯覚の世
 界に生きていて、それに洗脳されている」と見抜いてい
 た。
  それから、世論操作をし始めた。
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いる。
  アメリカを初めて明確に「民主政の国」であるとした
 のはアレクシス・ド・トクビルだった。
  また、「アメリカの支配勢力が、民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば「合意ので
 っちあげ」ができる、とリップマンは主張した。
  「宣伝工作技術を駆使すれば、人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・第一の市民階級は、専門知識を
 持つ特別階級で、政治・経済、イデオロギーのシステム
 における諸問題の分析、実行、意思決定、管理を行う。
  これらの人々は人口のごく一部でしかない・・しかし・・
  この特別階級から漏れた人々・・すなわち人口の大部
 分を構成する多くの人たちは、「とまどえる群れ」(戸
 惑う人たち)と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」になるが、行動
 には参加しないと説明した。
  選挙に於いて、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後はまた観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だ・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘している。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会・・
.
1931年、東部グリーンランド事件
  グリーンランド東部の無人地帯に、ノルウェー捕鯨
 業者が上陸した。
  そして、ノルウェー政府が、その地を併合するという
 宣言をするという「東部グリンランド事件」が発生した。
  ノルウェー政府の主張は、グリーンランドにおけるデ
 ンマークの主権は、植民地(人が住んでいる地域)に限
 定されている・・と・・
  また、古い文書では、「グリーンランド」という言葉
 は西海岸の植民地(デンマークが実際に開拓している地
 域)のみを指している。
  故に、それ以外の地域は、「デンマーク領であるとこ
 ろのグリーンランドではない」・・
  ノルウェーが占有する正当性がある・・と主張した。
  しかし、これは、デンマークの提訴を受けた国際司法
 裁判所の裁定によって退けられた。
  デンマークは、以前からグリーンランド全域に適用す
 る法令を制定したりしている・・
  つまり、人が住んでいなくても統治してきたのだから
 ノルウェーの主張はいれられない。
  人口が希薄で人が定住していない地域については他国
 が優越的主張を立証出来ない限り主権的権利の行使はご
 くわずかであってもよい。
  また、地図において、慣習的に使われる地名は反証の
 ない限り通常の意味に解すべきなので・・「グリーンラ
 ンド」という慣習的な地理的名称は、ノルウェー側が有
 力な反証をあげられない限りにおいてグリーンランド
 島を指していると考えるべきである・・となった。
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
  ドイツとソ連が、お互いに不可侵を約束した。
  そして、アメリカのルーズベルト大統領・・
  この大統領ほどアメリカの行く道を誤らせた大統領は
 いなかった。
  このルーズベルト大統領の周りには、うようよと大勢
 の工作員が居た。
  今・現在の日本の政権の周りも、この様な状況が起き
 ていると言われている・・、
  ルーズベルト政権の周りには、ソ連と深く精神的に通
 底した「共産主義に傾倒する側近たち」で満ちていた。
  1939年2月、戦争が始まりそうなこの時、ソ連は、ドイ
 ツと「独ソ通商協定」を結んだ。
  また、続けて、この年の8月、「独ソ不可侵条約」も結
 んだ。
  アメリカは、これに大きな衝撃を受けた。
  また、この様なアメリカに限らず、日本を含めて世界
 が大きなショックを受けた。
  アメリカも、そして、世界中もが、「ドイツとソ連
 敵対関係にある」と見ていた・・その様に思っていた。
  これを演じたのは、「ヒトラースターリン」だった。
  アメリカは、ソ連を、自分の陣営に引き込みたいと考
 えていた矢先だった。
  ソ連は、この様なドイツとの関係を作った後に、好き
 勝手な「武力行為を行い始めた」。
  この翌月の1939年9月、ポーランド侵攻の侵略行為を始
 めた。
  この侵略は、あっという間の武力侵攻だった。
  そして、ドイツと「独ソ間のポーランド分割協定」を
 結んで侵略を完成させた。
  また、ソ連は、その2か月後の1939年11月、フィンラン
 ドへも侵略を開始した(フィンランド戦争、冬戦争)。
  何とかソ連を取り込もうとしていたアメリカをはじめ
 西側諸国にとって、これは許せない行為だった。
  侵略国家・ソ連の性癖のむき出しの悪行為だった。
  東京裁判時にも、この蛮行は裁くべきだった。
  または、絶対に、ニュールンベルク裁判で裁かれるべ
 きだった。
  しかし、不公正な連合国の諸国は、この不正行為に目
 をつぶった。
  フィンランドは立派だった。
  敢然と不正をするソ連に立ち向かった。
  仕組まれた日本が、アメリカに立ち向かったのと同じ
 行動だった。
  フィンランドの方々は敗れたが、不正な行為に正義の
 戦いを挑み、フィンランドの「国の正義」を通した。
  これによって、フィンランドの方々には、大いなる誇
 りが生まれた。
  その誇りが、戦後のフィンランドの立派な立つ瀬を作
 り、国の立つ位置を作った。
  アメリカには、当然の「対ソ国交断絶論」が出た。
  しかし、卑劣にもアメリカは、あいまいな態度に終始
 した。
  ソ連の行動を非難したりする声明を出したりしたが、
 また、対ソ連の輸出を差し控える勧告を出したりしたが、
  ソ連の「さらなる暴力や脅迫」に晒された北欧諸国へ
 金融援助をしたりしたが・・
  アメリカの国民の方々の意見に従う行動をアメリカ政
 権はしたが・・
  しかし、結局は、ルーズベルト政権は、対ソの国交断
 絶論は否定した。
  これは、この様な卑劣な事をソ連がしても、アメリ
 は目をつむると見透かされ・・ルーズベルト側近たちに
 動かされるルーズベルトはおかしかった。
  それでもソ連を引き込みたいというアメリカは見透か
 されていた。
  その後のソ連は、まだ、更なる暴力行為・武力行為の
 蛮行を続けた。
  1940年には、バルト三国を取ってしまった。
  そしてまた、この年・1940年、ルーマニア領を侵略し
 た。
  しかし、まだ、アメリカは、その様な横暴なソ連へ黙
 り続けた・・逆に、ソ連に対して、対ソ連の宥和(ゆう
 わ、大目に見る)政策を取った。
  その行動・・宥和政策を強化した。
  アメリカは、バルト三国エストニアラトビア、リ
 トアニアから領事を引き上げて、「バルト三国ソ連
 だ」という意味の態度を取った。
  そして、ウラジオストクに、総領事館を開設するとい
 うアメリカだった。
  また、対ソ連の物資輸送を増加した。
  そして、さらに、1941年1月には、「対ソ道義的禁輸」
 を撤廃さえした。
  そして、1941年3月には、「米ソ東亜通商協定」まで締
 結した。
  この様な事までしてアメリカはソ連を取り込んでいく
 のだが、結局は、冷戦状態となって、原子爆弾と大陸間
 弾道の核ミサイルの軍拡の競争をする相手となる。
.
1940年、アメリカが、デンマーク領のグリーンランドとア
 イスランドに進駐した。
  ドイツが、海上封鎖水域をアイスランド周囲まで拡張
 したからだった。
  また、ドイツの爆撃でイギリス本国が危うくなったか
 らだった。
  日本は、ベトナム(フランスの植民地)に上陸したが、
 この時、フランスの許可を得ていた。
  アメリカは、グリーンランドアイスランド政府の許
 可を取っていない。
  しかし、アメリカのルーズベルト大統領は、日本のこ
 の行動を徹底的に利用して日本を悪者に仕立てた。
  日本は、フランスのビシー政権の許可を得ていた。
.
1941年4月13日、日ソ中立条約が調印された。
  正式名称:大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和
 国連邦間中立条約が締結された。
  相互不可侵、および、一方が第三国の軍事行動の対象
 になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文
 など・・
  この時まで、ソ連を宥和(ゆうわ、相手を寛大に扱う)
 したいアメリカは、なりふり構わず、ソ連の喜ぶこと、
 節操のない行動をとっていた。
  ソ連は、好きなように、ドイツとポーランドを分割し、
 何かとドイツと巧くやっていた。
  その様なソ連を、引き込みたいと、アメリカは焦(あ
 せ)っていた。
  この様なソ連の立場と対極にあったのが日本だった。
  アメリカが日本を排斥するのは病的でさえあった。
  この様な状況の時、驚天動地の事が起きた。
  1941年4月13日、日本とソ連が中立条約を締結した。
  ドイツからソ連を引き剥がしたいアメリカ、そして、
 そのソ連が、日本と中立条約を結んだのだった。
  アメリカは、ソ連へ宥和政策を進めて来た行動が頓挫
 したと思った。
  しかし、1941年6月22日に至ると、ドイツが、ソ連へ突
 如侵入した。
  この日の3時15分、ドイツ軍は、作戦名「バルバロッサ」
 の下にソ連を奇襲攻撃した。
  ソ連にいじめられていた反ソ感情の強い周辺国は、ド
 イツへ加担した。
  当然、ソ連は、ドイツに対して開戦した。
  これで、ソ連は、アメリカ側へ入ったのだった。
  1941年11月には、アメリカは、ご褒美ではないが10億
 ドルの供与をソ連へ贈った。
  アメリ国務省から軍事品のソ連への供与が発表され
 た。
  この共産圏の国=ソ連の立つ瀬をアメリカは作った。
  逆に、アメリカの対日経済封鎖の厳しさは増していた。
  そして、その後、共産圏・中国の毛沢東をも助けるア
 メリカとなる・・毛沢東を支援し、国際舞台の中心国の
 立場にするアメリカとなる。
  この端緒・・ソ連を助けたことに始まるアメリカの行
 動の判断は、歴史上の大汚点、大いに間違った判断とな
 った。
  この後、東ヨーロッパも共産圏・ソ連に抑えられた。
  ルーズベルトのやったことは大間違いだった。
  そして、今・・この共産圏・中国は、アメリカを食お
 うとしている。
  そして、アメリカは、共産圏・中国に追い越されそう
 になっている。
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1945年8月23日、シベリア抑留
  完全なる終戦の後に、ソ連(現:ロシア)によって行
 なわれた国際法の違反・違法行為である。
  日本国民の拉致である。
  スターリンは、戦争の終結した1945年8月14日の第二次
 世界大戦の終戦宣言の後の1945年8月16日には、「日本人
 を捕虜として用いない」という命令を内務人民委員ラヴ
 レンチー・ベリヤに下していたが、
  何と、終戦後の後も後の1945年8月23日に、これを翻し、
 「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜
 (拉致)50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労
 働を行わせる命令を下した。
  しかし、下記の実態の1事例の様に、日本人の一般国
 民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
  シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
  その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされてい
 る監禁の状態だった。
  稲葉俊郎・東大病院助教、医師のおじいさんは、足枷
 を付けて脱走し、日本へ帰って来た。
  (参考)第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ
     連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣
     戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連
     極東軍に命じて、満州朝鮮半島北部に軍事侵
     略した(ソ連対日参戦)。
      日本は、すでに、1945年8月14日、中立国を通
     して降伏を声明し、アメリカやイギリスの連合
     国に受け入れられていたが、ソ連は、1945年8月
     16日には日本領南樺太へ、1945年8月18日には千
     島列島へも侵略して占領した。
      樺太では直後に、日本の防衛的戦闘で、日本
     は勝利していたが千島の占守島では1945年8月22
     日に、日本から停戦命令が下り、武器を置いた。
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1950年代半ば、毛沢東による対日戦犯裁判
  中国では・・、
  ☆中華人民共和国によって対日戦犯裁判が行われた(
 近年、中国で新史料が公開された)。
  ☆1950年、シベリアに抑留されていた旧『満州国』や
 関東軍の関係者がソ連から中国に送還された。
  ☆終戦後、中国に残留し、国共内戦下で共産党軍と戦
 って捕虜となった日本人将兵、戦犯と見なされ、拘留さ
 れた。
  1526名。
  毛沢東思想に基づく思想改造を、長年、強烈に受けさ
 せられた。
  1956年に、大半が釈放された。
  (BC級戦犯なのに、約1000名が死刑にされた)
  ☆毛沢東は、「南京虐殺について、触れることはほ
 とんどない・・言及もしていない」。
  この事からも、南京事件は、後から中国(支那)によ
 る作り出された捏造ということがはっきり分かる。
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2017年1月20日ドナルド・トランプアメリカ大統領の就
 任式で・・
  「今、この瞬間からアメリカ第一主義アメリカ・フ
 ァースト)が始まる」と演説された。
  そして、また、新大統領は、「世界の国々と友好的で
 善意に基づく関係を築きますが、すべての国には自国の
 利益を最優先する権利があります。
  私たちは、自分たちのやり方を他の誰かに押し付けた
 りはしませんが、「輝く模範として見習われる存在にな
 ります」と演説した。
  すべての国々が、自国の国民の幸せを第一に考えるの
 が当然で、自国の国益を最優先するのも当然で、その様
 な自立した国々同士が友好関係を結んでいくのが「最も
 当然な最善な事」と示された。
  そこには、今までの様なアメリカが勝手に最善として
 思い込んだ考えを押し付けるようなことはしないという
 宣言があった。
  戦争の遠因となっていた「アメリカの考え方・イデオ
 ロギー」の勝手な押し付けはしないの宣言があった。
  今まで、アメリカは『自由と民主主義』と言って表面
 的には良いように見えることを、実際はアメリカだけが
 良いという勝手な事を「他国へ押し付けた」。
  持っている武力を振り回し、自国の若者も死に至らせ、
 また、他国の人々・・戦争とまったく関係ない方々を殺
 して来た。
  この様な「勝手な独りよがりな介入はしない」という
 宣言だった。
  実際は、「アメリカのやり方」「アメリカ・スタンダ
 ード」なのに・・「グローバル・スタンダード」だと嘘
 を言って、アメリカの超富裕層に都合の良いシステムを
 押し付けて来た。
  当然の様に他国の内政に干渉し、屁理屈で「ああだ、
 こうだ」と言った。
  この様な事を、当然のように、『間違っている』と「
 否定した大統領」だった。
  しかし、今まで「利益を享受して来た組織」が、盛ん
 に抵抗している。
  その今までの組織に「おもねっている」・・日本のゴ
 マすり「マス・メディア」も、盛んに、「トランプ大統
 領に対抗する反対報道」をしている。
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2019年、アイヌの方たちだけが特別ではない。
    アイヌ特別立法はお止めください。
  アメリカで『キンタクンテ』が話題になった頃、それ
 が日本でも話題になった頃、「ルーツ」「ルーツ」と
 自分のルーツに皆が関心が向かった頃・・、
  キンタクンテは、「そのルーツをアフリカに発見した」。
  その頃、自分の事を調べてみると、何と、せいぜい隣
 村くらいの狭い社会の中で「先祖の方たちは生きて来た」
 ことが分かりびっくりした。
  同じ村、若しくは、隣村との結婚が繰り返されていた。
  これでは、「武蔵野民族ではないか」と思った。
  知人に、京都で、明治に生まれた方が居られて、関東
 大震災の時に東京に出て来られたが・・、
  その頃、鹿児島の薩摩弁の方と青森の津軽弁の方が、
 話が通じ合わなくて、通訳をしてあげたと言っていた。
  京都で育ち、都で色々な方と接して、薩摩弁と津軽弁
 が通訳できたのだ。
  今・現代、通信機器も発達し、テレビ・ラジオの放送
 も氾濫し、標準語が定着し、その様な話は夢の様だけど・・、
  また、先の話は、交通手段が発達し、遠くまで簡単に
 行ける現代、男女の接触もSNSでも会えるという時代。
  男女の接触も広くなって、その様な話しはまったく想
 像が出来ないが、武蔵野民族の自分だって同化したが「
 武蔵野民族なのだ」。
  九州には「熊襲(くまそ)」という民族が居て、ある
 時、世間の話題になったが、今は完全に同化して、話題
 になることも無い。
  能には「吉備人」が出て来てる様に、日本には「アイ
 ヌの方々だけではない方々が色々生活して居た」。
  アイヌの方々だけが特別ではない。
  武蔵野民族は完全に同化したが・・ならば、「武蔵野
 民族の方々にも特別法を作りなさいと言いたい」・・そ
 して、「武蔵野民族を無視する理由はありませんと言い
 たい」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/