(増補版)644E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)

題:(増補版)644E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
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1896年4月9日、横川駅~直江津駅間が営業開始された。
  また、日本・両毛・甲武・川越の各鉄道、および、貨
 物連絡運輸が開始された。
  碓氷峠を挟む横川駅~ 軽井沢駅間は、難所のため工事
 が遅れた。
  1888年から1893年にかけて、碓氷馬車鉄道という馬車
 鉄道が国道18号上に敷設されていた。
  しかし、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半も
 かかっていた。
  延長11.2 kmの間に、18の橋梁と26のトンネルが建設さ
 れ、着工から1年9か月後の1892年12月22日に、工事が完
 了した。
  翌年の1893年4月1日に、官営鉄道中山道線(後の信越
 本線)として横川駅~軽井沢駅間が開通した。
  そして、1997年10月1日に、横川駅~軽井沢駅は廃止と
 なった。
  これは、北陸新幹線高崎駅長野駅間の先行開業に
 伴う廃止だった。
  ヨーロッパの技術を取り入れ、お抱え外国人の技術提
 案なども取り入れ、アプト式で有名なこの路線、苦労し
 て開業したが、現代になって、新幹線がスマートに走り
 抜けて行く区間となった・・その様な世界に誇る鉄道技
 術を持つ日本となった。
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1896年4月14日、板垣退助が、第2次伊藤内閣の内務大臣に
 就任した。
  自由党と政府の提携がなり、板垣退助が内相に就任し
 た。
  第9議会を前に政府との提携を模索していた自由党は、
 1895年11月22日、立憲政体と責任内閣の方針を同じくす
 るものと、相共に連携するとの「宣言」を発表した。
  この宣言は、藩閥、とりわけ伊藤博文との提携があり
 うることを示していた。
  伊藤首相は、これを受けた・・閣僚を集め演説を行っ
 た。
  自由党の方針は、内閣と同じく立憲政体の完成にあっ
 た。
  「譲るべきは譲り」「相共に謀(たばか)るべき」で
 あると主張した。
  そして、両者の提携の必要を訴えた。
  (参考)謀る:(1)計画・方法などを思いめぐらす。
     工夫する。(2)相談する。(3)計略をめぐら
     してだます。
  自由党は、第9議会に与党として臨んで・・
  1896年4月には、板垣退助が離党の上、内相として入閣
 した。
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1896年4月15日、逓信省大臣官房及各局分課規程を改正し、
 施行した。
  鉄道局に、新たに汽車課・建設部が設置された。

1896年4月16日、音楽家幸田延(こうだのぶ)が、帰朝し、
 披露演奏会を行った・・ピアニスト、ヴァイオリニスト、
 音楽教育家、作曲家。
  東京音楽学校の教授として滝廉太郎山田耕作らを育
 てた。
  1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、
 未完)と・・
  1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章のみ)は、
 日本人による初のクラシック音楽作品であり、素晴らし
 い作品である。
  兄に、小説家の幸田露伴と、海軍軍人であり探検家の
 郡司成忠が居る。
  妹もヴァイオリニストの安藤幸。
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1896年4月18日、奈良鉄道の木津駅~奈良駅間が開通し、京
 都駅~奈良駅間が全通した。
  日本の二大古都が鉄道で結ばれた。
  しかし、京都駅~奈良駅間でほぼ並行する近畿日本鉄
 道京都線が、スピード、列車本数とも圧倒的優位に立っ
 ていて・・
  長らく非電化であった奈良線は、輸送力の小さな脇役
 的な鉄道の地位にとどまっていた。
  1984年に、電化された後も、その地位は本質的には変
 わっていない。
  1987年、日本国有鉄道の分割民営化で、西日本旅客鉄
 道に所属した。
  列車はすべて木津より関西本線に乗り入れて京都~奈
 良間に直通運転される。
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1896年4月20日、森正道が、小児病のひとつ脾疳(ひかん)
 の治療法を発表した。
  (参考)脾疳: 身体が痩せ、腹がふくれてくる小児病。
     小児の慢性胃腸病。
  (参考)森正道:もりまさみち、1860年~1932年、医
     師。東京大学卒。
      ドイツに留学して外科学をおさめ、1905年、
     帰国。三重県羽津病院長をつとめる。
  1904年、三重県の小児科医の森正道は、農山村の貧困
 な家庭の小児が、過食と下痢で腹が大きく膨れ、頭髪が
 薄くなり、夜盲症や眼の結膜炎を起こして化膿、失明す
 る病気があり、脾疳(ひかん)と呼ばれた。
  森は、この病気が脂肪の不足によって起こるとして、
 肝油を与えて治療を行った。
  この様な病気が、その後、ドイツやデンマークでも報
 告された・・世界各地で見られる病気であることが分か
 った。
  肝油からビタミンAを単離して結晶化する研究は、日
 本の理化学研究所が成功した。
  ビタミンAの化学構造は、1931年に、スイスのカラー
 が、オヒョウ肝油からの研究で決定した。
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1896年4月20日日本勧業銀行法・農工銀行法のそれぞれを
 公布した。
  農工銀行は、各府県に設立された特殊銀行で、農工業
 の改良発達のため、長期で低利な貸付を目的とした(土
 地を持たない小作人への融資の道も開いていた)が・・
  1921年に、勧農合併法が制定され、漸次、日本勧業銀
 行に合併された。
  1898年~1900年に、全国46府県に各1行を設立した。
  北海道は北海道拓殖銀行
  府県が半額出資し、その中央機関として日本勧業銀行
 (現:第一勧業銀行)を設立した。
  資金源の債券発行が伸びず、勧銀の代理貸付けを行っ
 て、1921年~1944年に、すべてが勧銀に合併された。
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1896年4月22日、ロシアが、朝鮮の利権を獲得した。
  朝鮮の慶源・鍾城の鉱山採掘権を取得した。
  ロシアは、実質的な権力のない高宗におもねり鍾城・
 慶源の鉱山採掘権を取得した。
  また、朝鮮北部の森林伐採権も取得した。
  また、関税権などの国家基盤をも取得して朝鮮半島
 の影響力を増して行った。
  この様な事から、この後に起きる日露戦争は、朝鮮半
 島でロシアが侵略した朝鮮西北部のロシア軍と戦うこと
 となる。
  例えば、朝鮮の咸鏡道は、戦争初期において、ロシア
 軍の占領下に置かれていたが、1904年8月以降は、日本軍
 が徐々に北上して解放して行った。
  ロシア軍は、ウスリー川地域に軍隊を置き、圧迫をし
 ていた。
  この様な時、韓国政府はロシア側に付くでもなく、日
 本側でもなく、中立の宣言をしていた。
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1896年4月26日、桑田熊蔵、山崎覚次郎、高野岩三郎ら、社
 会政策研究団体を設立した。
  翌年・1897年4月24日、社会政策学会と命名した。
  毎月1回の例会で社会問題を討議した。
  経済学者を中心としたが理論研究にとどまらず、足尾
 鉱毒事件調査など実際問題や、政策の提言にも熱意を示
 した総合的な学会だった。
  1907年12月、工場法を論題としたことを皮切りに公開
 の活動を開始し、記録を『社会政策学会論叢(ろんそう)』
 として刊行するなど啓蒙(けいもう)的役割も担った。
  労働問題の解決に力を注ぎ・・
  1922年、282名の会員を数えた。
  ドイツの同学会に範をとり社会主義と一線を画し、社
 会改良主義の立場を貫いた・・が・・
  1924年12月、第18回大会を最後に休眠状態に入った。
  設立当初、この研究会は、ドイツ留学で当時最先端の
 経済学とされていた社会政策学派の講壇社会主義(当時
 は「講壇社会党」と呼ばれた)を学んだ桑田・山崎が、
 社会問題の激化予防と解決のため、ドイツ社会政策学会
 をモデルに設立した。
  会は、さらに、金井延・田島錦治・高野房太郎・佐久
 間貞一らを会員に加え、月例会も開催した。
  1898年7月、桑田・金井・戸水寛人の執筆による「社会
 政策学会趣意書」を発表した。
  「趣意書」は、自由放任主義、および、社会主義への
 反対を表明し、
  また、「現在の私有的経済組織を維持し、其範囲内に
 於て箇人の活動と国家の権力に由つて階級の軋轢を防ぎ
 社会の調和を期す」とある。
  これは、明確に、資本主義の枠内での社会改良主義
 立場を標榜し・・
  と同時に、この趣意書には、会員の片山潜らが結成(
 1898年)した社会主義研究会との違いを明確にするとい
 う意図も込められた。
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1896年4月27日、民法明治29年法律第89号)が公布された。
  民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)が
 定められ、公布された。
  これによって、日清戦争後の経済発展の基礎固めが行
 なわれた。
  続いて、1898年6月21日の明治31年法律第9号により定
 められた民法第四編・第五編(親族、相続)・・
  附属法令として、1898年6月15日、明治31年法律第11号
 民法施行法が公布され・・
  全体が1898年7月16日から施行された。
  原案起草者は、穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三名。
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  (今日の言葉)
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  題:200年前にアジアに来たロシア白人が、アイヌを先住民だとした・・
    それを見て・・日本の政治家たちが・・
    紀元前の何万年も前から日本に住んでいる日本人の先住民は、アイヌだと決めた・・
    先住民の日本人の後から来たアイヌの人たちが先住民だとした・・
    アイヌの人たちは、13世紀~14世紀に、北方からやって来たのに・・
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紀元前12万年、ナウマンゾウが本州から津軽海峡を渡って
 北海道へ行った。
  紀元前1万3000年になると、最後の氷期は終了した。
  この氷期には、海水面が80~140mも下がっていて、津
 軽海峡や宗谷海峡がなくなっていて大陸と地続きとなっ
 ていた。
  幕別町忠類村(ちゅうるいむら)で見つかったナウマ
 ンゾウの全身化石は、12万年前のものだった。
  このゾウは、本州から津軽海峡を渡って北海道へ行っ
 た・・
  また、その様なゾウを食糧としようと本州から人々が
 渡って行った。。
  4万5千年前から2万年前頃になると、サハリンを通って
 大陸から渡ってきたマンモスゾウがいた。
  マンモスゾウを追って、北海道に北方の人々が渡って
 来た。
  また、渡ることが出来る津軽海峡で、北海道と本州の
 人の行き来がなされていた。
  日本人の先住民である縄文文化の人びとの暮らしが、
 北海道各地に残された遺跡から知ることができる。
  北海道では、旧石器文化縄文文化など約1万2,000ヶ
 所の遺跡が確認されている。
  そのうちの約7,000ヶ所という多くの遺跡が、縄文時代
 の遺跡となっている。
  日本の各地を、沖縄から北海道まで、アフリカからの
 人類のうねりの様に、日本の先住民たちは移動し、そし
 て、交雑した。
  縄文文化の遺跡から、住居や「ムラ」の跡、土器や石
 器などの道具がたくさん見つかっている。
  墓地や水場、狩りの跡なども見つかる。
  また、北海道では、多くの「貝塚」も見つかっている。
  伊達市北黄金貝塚からは、ハマグリ、カキ、ホタテな
 どの貝がらだけでなく、マグロやヒラメの骨、オットセ
 イやクジラなど海獣の骨、さらに、縄文文化の人びとの
 お墓やシカの頭の骨をならべた儀式の跡なども見つかっ
 ている・・この人たちはアイヌの人々とは違う。
  釧路市にある東釧路貝塚からも、貝類や魚の骨のほか、
 イルカの頭骨を放射状に並べたものが出土している。
  縄文文化の人びとは、すべてのものや事象に魂がある
 と考えていた。
  「貝塚」は、人びとが使い終わったものを、恵みをも
 たらしてくれる世界へ送る場だったと想像もできる。
  函館市大船遺跡や垣ノ島遺跡で見つかった「盛土(も
 りど)」遺構も、同じような祭祀や儀礼の場であったと
 想像され推定されている。
  このような「送り場」は、縄文文化の人びとの精神文
 化を伝えてくれていると推定されている。
  北海道北東部には、約7,000年前に「石刃鏃(せきじん
 ぞく)」という独特な鏃(やじり)が伝わった。
  これはシベリアなど大陸の影響を受けたものと想像さ
 れている。
  また、北海道の西南部と津軽海峡を挟んだ北東北は、
 縄文時代前・中期に同じ特徴の円筒状の土器を使うなど、
 共通の文化圏を持ち、つながりがあった。
  このことからも津軽海峡を挟む18ヶ所の縄文遺跡群は、
 現在、世界遺産登録を目指している。
  北海道からは、北黄金貝塚、入江・高砂貝塚、鷲ノ木
 遺跡、大船遺跡、キウス周堤墓群、垣ノ島遺跡の6ヶ所が
 入っている。
  (北海道博物館 赤れんがサテライトを参考にした)
     ・
     ・
8世紀頃、擦文文化(さつもんぶんか)
  擦文土器を持つ文化で、北海道、東北地方北部に分布
 している。
  これは、東北地方の古墳文化の影響を受け、そして、
 成立した。
  8世紀頃より、鎌倉時代および室町時代に及んだとされ
 る。
  北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器 (はじ
 き) を伴う文化が接触したと考えられる。
  そして、これは、アイヌとも違い、アイヌ文化に先行
 する文化とされる。
  この遺構は、江別市恵庭市などの道央部に発見され
 る。
  奈良時代律令政府とかかわりのあった人が被葬者だ
 と考えられている東北地方の末期古墳と同形で、出土遺
 物も、土師器(はじき)、直刀、蕨手(わらびで)刀、
 鉄斧、鉄鎌、銙帯(かたい)金具、勾玉や和銅開珎など
 似たものが多い・・
  おもな、生業は漁労であり、方形の竪穴住居には「か
 まど」があり、粟、ひえ、そばなどが出土することによ
 って、小規模な栽培も行われていた。
  そして、この擦文文化の時代には、北海道には縄文人
 の子孫は居たが、アイヌは居なかった。
  この後、13世紀頃、樺太に居たアイヌが、モンゴルの
 攻撃などの歴史的事変で、それまでの居住区を追われ、
 北海道に移動して来たと考えられている。
  それは・・アムール川下流域から樺太にかけての地域
 に「吉里迷(ぎれみ)族」が住んでいた。
  この集団は、モンゴルに遠征されて、1263年、モンゴ
 ルに服従した。
  その翌年・1264年、この族は、「骨㟴(くい)」や「
 亦里于(いりう)」が、「毎年の様に侵入して来る」と
 いう訴えをフビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
  (参考)「北からの蒙古襲来の真相」中村和之(法政
     大学国際日本学研究所所属)、
      クイ(骨㟴、蝦夷)は、二ヴフ語でアイヌ
     意味するkuyiを音訳したものと思われる。
  この訴えを受け、元朝アイヌを攻撃した。
  (参考)『元史』「世祖本紀」至元元年十一月丙子(
     1264年11月25日)条に記されている。
  これが「北からの蒙古襲来」で、鎌倉幕府への侵攻の
 「元寇」よりも10年早い時に起きた。
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ南下したと考
 えられている・・アイヌの人々の北海道居住の初め・・
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802年5月22日、(延暦21年4月14日)阿弖流為(あてるい)
 と母禮(もれ)は、兵5百余人を率いて胆沢城(いさわ
 じょう)の坂上田村麻呂将軍に投降したと日本紀略に記
 されている。
  (参考)阿弖流為:あてるい、平安初期の蝦夷の族長。
     北上川流域一帯を支配し、延暦8年(789年)、
     征東将軍紀古佐美(きのこさみ)軍を破る。
      延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂
     が胆沢城を造営し始めると、これと戦うことな
     く、盤具母礼と共に一族五百余人を率いて投降
     し、河内国杜山で処刑された。
      田村麻呂は助命懇願した。
  (参考)蝦夷:えぞ、えみし。古代、日本の北辺、実
     際には中部以東、北陸、関東、奥羽地方に住む
     人々は、大和朝廷より、蝦夷という名で異民族
     扱いされていた。
      蝦夷はまたエミシとも読む。
      彼らがいかなる人種、民族であったかは、江
     戸時代以後、多くの史学者によって論じられて
     きたが、決め手がなく、一方、人類学者もこの
     解明を手がけたが、人骨などの実証拠が乏しか
     った。
      新井白石本居宣長蝦夷すなわちアイヌ
     をとった。
      長谷部言人ら人類学者は、石器時代人骨の研
     究から、非アイヌ説をとり、日本人でも東国、
     北辺に住む化外 (けがい) の民を蝦夷と称した
     としている。
      金田一京助奥羽地方に残る地名をアイヌ語
     で解釈できるものとして、奥羽地方にいた蝦夷
     はアイヌであると考えるが、考古学的資料から
     はにわかに説明しがたい。
      東北地方出土人骨のうち、アイヌであると思
     われるものはごく少い。
  (参考)蝦夷:最初は〈えみし〉といい、〈夷〉〈毛
     人〉の字をあてた。
      大化改新後はおもに北越奥羽地方および北
     海道に住む人びとをいい、〈蝦夷〉と書くこと
     が多くなったが、9世紀~15世紀には〈夷〉が
     一般的で〈蝦夷〉という表記は少ない。
      訓も〈えみし〉のほか〈えびす〉〈えぞ〉が
     混用された。
      中世での〈蝦夷〉の表記は安東(安藤)氏を
     指すことが多いとされ、奥羽・北海道に住む人々
     一般をいったかどうかは個々のケースにより異
     なる。
      こうしたことばとアイヌとの関係については、
     まだ明確でない。
      中世期の〈蝦夷〉を明確に定義するのは困難
     である。
      またこうしたことばとアイヌとの関係につい
     てもまだ明確でない。
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1060年、北海道は遠い昔から和人が渡っていた。
  律令時代にも北海道への人的な行き来は確認されてい
 るが・・意冨比(おおひ、おおい)神社という道南の北
 斗市にある神社には、平安時代の康平三歳(1060年)の
 銘が入る鰐口がある。
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1135年、船魂神社
  船魂神社は、函館の港を見下ろす函館山の麓、函館観
 光の中心地に鎮座する、北海道最古の神社で・・
  古来、船の守護神、海上安全、大漁祈願、交通安全、
 開運導きの神様として崇敬されて来ている。
  また、源義経津軽海峡の海難から助け、この地へ導
 いたという伝説も残る神社・・
  起源は、保延元年(西暦1135年)崇徳天皇の御代に、
 融通念仏宗開祖の良忍上人がこの地に着いて、ここは神
 霊の宿る処だと里人に伝え、海上安全を祈念して奉られ
 た。
  これ等の神社の多くは道南の漁業拠点に集中し、道南
 には古社は多い。
  平安時代奥州藤原氏の残党が渡島で神社を建立した
 という説もある。
  一例として、意冨比(おおひ、おおい)神社、旧大日
 堂という道南の北斗市にある神社には、平安時代の康平
 三歳(1060年)の銘が入る鰐口を有する。
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1205年8月16日、北海道の知内川(しりうちがわ)で砂金が
 採れ、この日(元久2年7月23日)に金山祭を行ったとい
 う記録がある。
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1220年頃、この頃からの鎌倉時代には、京都などの強盗・
 海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤氏が、
 北海道へ島流しにしていた。
  この者たちの多くは、道南に住んだ。
.
1264年、アムール川下流域から樺太にかけての地域に住ん
 でいた「吉里迷(ぎれみ)族」が、元朝フビライに、
 「アイヌが攻めて来る」と報告した。
  フビライは、この事によって日本への元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した(北からの蒙古襲来)
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ移住したと考
 えられている。
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13世紀、この時期のアイヌの北海道の居住地域は、オホー
 ツク沿岸や道東に限られていた・・
  この後、北海道全域へ広がって行く。
  そして、1220年頃からの鎌倉時代には、京都などの強
 盗・海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤
 氏が、北海道へ島流しにしていた。
  13世紀の北海道のアイヌは、オホーツク海岸や道東に
 多く住んでいて、流刑者は道南地方に追放されたので、
 この後に、道南は、アイヌと和人の雑居地状態なったと
 考えられる。
  1320年頃から、この安藤氏は、アイヌの人たちとの交
 易を行なっている。
.
1320年頃、この頃から、津軽の大名・安藤氏は、アイヌ
 人たちとの交易を行なった。
.
1456年、コシャマインの戦い(~1458年)
  蝦夷地のアイヌが起こした大規模な安東氏らに対する
 蜂起。
  津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠としていた安東
 (安藤)氏の蝦夷地への逃亡(1443年)の後、深まった
 対立が原因で起こった。
  蝦夷地南西部(現在の道南地方)の安東氏ら根拠地の
 支苔(志濃里)(しのり)館など(道南十二館)のうち10
 館が一度はアイヌの手におちた。
  若狭(わかさ)出身だと伝えられる武田信広松前氏の
 祖)が、蝦夷地東部の首長コシャマイン父子を討って、
 戦は終わった・・
  この後、武田信広は、「上ノ国守護」の蠣崎(かきざき)
 季繁の女婿となって蠣崎家を継いだ。
  そして、武田信広の子孫は、支配地の「三守護職」の
 権能を掌握して、松前藩を成立させた。
.
1648年、アイヌの人々同士の争い
  アイヌのメナシクルは、現在の新冠町から白老町方面
 にかけての集団であるシュムクルと・・
  シベチャリ川(静内川)流域の領分をめぐって遅くと
 も1648年から対立をしていた。
  (参考)メナシクル:静内以東の太平洋沿岸地域など
     に居住するアイヌ集団の名称。
.
1669年6月21日、シャクシャインの戦い
  シブチャリのアイヌの首長シャクシャインを中心とし
 て起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起。
  アイヌ惣大将のメナシクルとシュムクルは、シブチャ
 リ地方の漁猟権をめぐって、争いを、1648年から続けて
 いた。
  シャクシャインは、メナシクルの副首長であったが、
 カモクタインが、1653年に、シュムクルによって殺害さ
 れたために首長となっていた。
  抗争を危惧した松前藩は、仲裁に乗り出した。
  1655年には、両集団は一旦講和をした。
  この時、シュムクルは松前藩に接近した。
  シュムクルは、松前藩に親善的な友好な立場となった。
  1665年頃から、アイヌ同士の対立が再燃した。
  1668年5月31日には、メナシクルによってオニビシが
 殺害された。
  (参考)オニビシ:北海道に存在したアイヌ集団のひ
     とつハエクル(シュムクル)の首長・惣乙名。
  松前藩は、アイヌとの交易の特権を豊臣秀吉から得て
 いたが・・
  また、江戸時代になっても、この特権は、徳川家康
 らも与えられていた。
  この様な交易の特権を得ていた松前藩アイヌとの交
 易は、松前藩が財政的な困窮度が増して行った事もあっ
 て、厳しい対応となって行った。
  米と干鮭の交換レートなどに厳しさが増した。
  この頃、全国的な飢饉が発生していて、やむを得ない
 面もあった。
  松前藩は、米が無くなって3000俵を幕府から借りる事
 もあったくらいだった。
  また、この様な状況の中、アイヌが、交易を一方的に
 「押買されたりする行為」もあった。
  また、和人の山師が、砂金堀のため、内陸部を切り開
 く行為もアイヌにとって生活を脅かす行為となった。
  また、大名の鷹狩り用の鷹を勝手に捕獲することもア
 イヌの人々の生活を脅かした。
  また、シャクシャインにオニビシを殺されたハエのア
 イヌは、松前藩庁に武器の提供を希望した・・
  しかし、松前藩は、これを拒否した。
  サル(現:日高地方)の首長ウタフは疱瘡で死んだが、
 これが、「松前藩によって毒殺された」と思われること
 なども影響した。
  これらが発端となって、シャクシャインは各地のアイ
 ヌの方々たちへ蜂起を呼びかけた。
  アイヌの方々はこれに呼応した。
  和人の製品がアイヌの方々の生活に根付いていて、こ
 れを得るのに交換レートが厳しくなっていることも蜂起
 の心情を作った。
  また、アイヌの惣大将同士の争いも多くなっていた時
 期で、アイヌの方々の不満の心情も鬱積し高まっていて、
 対松前藩蜂起へと移行し爆発した。
  1669年6月21日(寛文9年6月4日) 、シャクシャイン
 の呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く、東は釧
 路のシラヌカ(現:白糠町)から西は天塩のマシケ(現:
 増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。
  決起した2,000の軍勢は、鷹待や砂金掘り、交易商船を
 襲撃した。
  突然の蜂起に、和人は対応できず、東蝦夷地では213人、
 西蝦夷地では143人の和人が殺された。
  松前藩はこれに対応し、また、幕府へ蜂起を急報し、
 援軍を求めた。
  幕府は、松前藩の要請に応じて、弘前津軽氏・盛岡南
 部氏・秋田佐竹氏へ出兵を命じた。
  シャクシャイン軍は松前を目指した。
  1669年7月末、援軍の兵が松前藩と合流し、戦闘は8月
 上旬まで続いた。
  兵器の差や、内浦湾一帯のアイヌが分断されて力を発
 揮できず、シャクシャイン軍は不利な状況となって行く。
  シャクシャインは長期戦に備えた。
  松前藩は戦いの長期化を恐れた・・
  それは、戦いの長期化による交易の途絶や、幕府によ
 る改易を恐れたのだった・・
  松前藩は和睦を提案した。
  シャクシャインは和睦に応じて、1669年11月16日、松
 前藩陣営に出向いた・・
  その和睦の酒宴で、松前藩は、シャクシャインを殺す
 という卑怯な行為をしてしまった。
  指導者を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰えて行った。
  その後、松前藩は、交換レートを緩めた。
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1859年、江戸幕府が、開港場居留地における外国人の信仰
 の自由を認めた・・キリスト教信仰の容認・・
  また、キリスト教宣教師の来日を許可した。
  キリスト教カトリック教会は、パリ外国宣教会を通し
 て宣教師を派遣して来た。
  フランス横浜領事館付通訳兼司祭として来日したS・
 B・ジラールは江戸入りした。
  また、彼は、1862年1月、横浜天主堂も建立した。
  ベルナール・プティジャンは、1862年に来日し・・、
 1864年大浦天主堂を建立した。
  アメリカ、イギリス、カナダ、オランダからはキリス
 ト教プロテスタントの宣教師が来日した。
  キリスト教正教会は、1861年、ニコライ・カサートキ
 ンが来日し、函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭となった。
  そして、後に、キリスト教日本ハリストス正教会を設
 立した。
  キリスト教が、明治時代になって高札の撤去まで弾圧
 があったと過大な嘘を言うが・・、日本は早くからキリ
 スト教に対して見過ごして来て、また、無視して来た・・
 弾圧などはまったく早い時期からやっていない。
  そして、明治時代の維新となって、日本が近代国家へ
 の歩みを始めた頃、逆に、キリスト教を含めて、日本に
 は『西欧礼賛』があった。
  何でもかんでも西欧が良いと、「真の姿を見ず」に西
 欧を美化し礼賛し取り入れた。
  この頃、キリスト教関係書が盛んに翻訳された・・し
 かし・・今・現代、キリスト教関係者は、この頃の翻訳
 は駄目だと言っている・・翻訳のレベルがまったく低い
 と言う・・この様なレベルでキリスト教徒になった人も
 多く居た・・
  翻訳について、内容の正確さの問題もあったが、翻訳
 文の日本語として成立しないようなレベルの物もあった
 と・・
  この様な知識レベルで、キリスト教にのめり込んだ人
 たちは多かった・・
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1937年、杉原千畝が、ソ連への入国の拒否通告を受ける。
  杉原千畝は外交官ではない・・日本のスパイとして働
 いていた。
  その様な職員の身分なのだ。
  ソ連人女性と結婚してまでして、ソ連の情報を得よう
 とした。
  ここまでして、日本軍に有利となる情報を探った。
  ソ連から入国を拒否されるくらいの情報を探ったスパ
 イだった。
  しかし、杉原千畝ソ連人の妻から「逆スパイをされ
 ていた」という話もある。
   ・
   ・
2018年10月31日、中国が、南沙諸島の運用を強行に開始し
 た。
  この時から遡ること3年2ヶ月前の2015年8月20日、アメ
 リカ国防総省は、「アジア太平洋での海洋安全保障戦略
 と題した報告書を公表した・・
  中国が、2013年12月に、南沙諸島での埋め立てを開始
 して・・、
  2015年6月までに、2,900エーカー(約12km2)を埋め立
 て、その面積が、周辺諸国による埋め立てを含めた全体
 の『約95パーセント』に当たることを明らかにした。
  また、埋め立てから滑走路や港湾施設の建設によるイ
 ンフラ整備に重点が移行していることも指摘した。
  中国が、この様にして実効支配をして、軍事拠点化し
 ているこの場所を、地球上で取引されている原油や液化
 天然ガス(LNG)の約半分が通過している。
  そして、2016年1月、アメリカのCSIS(戦略国際問
 題研究所)は、報告書において・・、
  中国の空母打撃群保有の可能性と併せて、「2030年ま
 でに、南シナ海が事実上中国の海となる」と警鐘を鳴ら
 した。
  2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、
 中国が、南シナ海のほぼ全域で領有権を主張する「独自
 に設定した境界線『九段線』」には、国際法上「歴史的
 権利を主張する法的根拠はない」と認定する裁定を下し
 た。
  また、中国が、南沙諸島などで人工島の造成などをし
 ている岩礁はすべて「島ではなく」、「岩」または高潮
 時に水没する「低潮高地」であると認定する裁定も下し
 た。
  しかし、2018年10月31日、ファイアリー・クロス礁、ミスチー
 フ礁、スビ礁を運用開始したと、中国が公表した。
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2019年、今、ロシアが困っている・・中国の浸透が続いて
 いるのが・・その理由・・
  中国が、シベリアへの浸透を謀(はか)っている。
  中国とロシアの長い国境線では・・ロシアは、その為
 の国境の壁を、そのすべてに設けられない・・、
  また、長い国境線の厳重な管理も難しいという状態・・
 その様な中を・・中国は浸透を謀(はか)っている。
  アメリカも、国境に壁と作ろうとしているが、その為
 の金がないという、予算措置が出来ないという。
  必死に国づくりをして、良い国となり、その国づくり
 の努力の結果、幸せな生活ができるようになる・・
  そうすると、国境を『違法に越えて』、自分も幸せに
 なりたいと、違法に国境を越える者たちが増える。
  中国は・・日本が満州族の方々が多かった地に、その
 満州族の方々の国の建国の手助けをして、満州国を建国
 して差し上げたが・・、
  しかし、その地は、日本が戦争に負けると、中国の地
 だと「知らぬ間になってしまった」。
  今、その地には、満州族の方々は居ないという。
  殺されたのか・・他に移住させられたのか・・不明の
 状態となっている。
  そして、「中国東北部」と称されて、「中国のもの」
 とされている。
  中国の漢民族が少数だったこの地は、明らかにこの様
 になってはいけない地であって・・、
  本当は、この地は、「中国東北侵略部」と称するのが
 正しい。
  そして、この地の北のロシアのシベリア部分に、中国
 が浸透している今・現在なのである。
  そして、その地も、そのうち、「中国東北侵略部・北
 地区」とでも名付けられるだろう。
  中国の歴史は、昔からこの様な周辺国・周辺部への侵
 略・浸透が行われて来た・・
  そして、「洗国」という事が行われた・・
  洗国とは・・国を洗うと書くが、その国のその地の男
 だけを他の場所に移して、その地へ「中国の漢民族の男
 だけ」を移り住まわせて、強制的に漢民族を増やさせて
 「漢民族化を行なって」・・「国を奪う」という事を、
 昔からやってきた国だった。
  キリスト教聖書にも、この事が記述されている・・
  キリスト教の神は叫ぶ、「△△人は、男だけを殺せ」
 と・・そして、場合によっては、このキリスト教聖書に
 書かれたキリスト教の神は、「生娘は生かして置け」と
 も叫んだ。
  そしてまた、キリスト教の聖書の神は、「○○人は、
 皆殺しにせよ!」とも叫んだ。
  この様な事を、中国は、昔からやってきた。
  チベットウイグル、そして、内モンゴルや中国南方
 の諸国・諸地域が、今・現在、「半・中国化されてしま
 っている」。
  中国は、長期にわたる侵略国なのである。
  日本の沖縄や北海道も狙われている。
  そのうち、洗国という手が使われる可能性があるとも
 言える・・それは、中国が昔からやって来た事である。
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2019年4月8日、韓国の子供たちは、「酷いことをした日本」
 というイメージで教え込まれている。
  それも、「嘘の話をでっち上げられて」教えられてい
 る。
  例えば、韓国の小学校6年生の社会の教科書に裸の酷い
 状態の男の人たちが写っている写真が掲載されている。
  産経新聞社の加藤達也氏によると・・、
  この写真の元は北海道の旭川新聞がかつて掲載した写
 真であって、これらの人達は日本人を撮影した写真であ
 って「朝鮮人徴用工とは縁もゆかりもない人たち」であ
 る。
  それを、韓国の小学生の社会科の教科書には「強制労
 役に動員された我が民族」と書かれている。
  この写真は、1926年に、旭川新聞が掲載した写真で、
 道路建設現場の写真で、写っている人たちは日本人。
  韓国が日本の貶めのために作っている徴用工の銅像
 モデルとなっている写真とも言われている。
  産経新聞は、この事を韓国に指摘した・・その指摘を
 受けた韓国教育省は、「韓国教科書の誤りを認めた」。
 「訂正することも約束した」。
  しかし、間違い教科書を回収するという事ではなく「
 シールを貼って隠す」というものだった。
  韓国は、この1例の様に、雑な荒っぽい認識で事を処し
 ・・この様なレベルで韓国の子供たちの洗脳・刷り込み
 をしている。
  韓国の少年少女たちを反日へと導く教育がなされてい
 る・・この様な洗脳教育の怖ろしさを、韓国政府は認識
 していない。
  韓国は、この1例だけではなく、次々と根拠のないこと
 で「歴史を改ざん」し、日本を貶め、反日教育をしてい
 る。
  竹島は、韓国の領土だと刷り込んでいる。
  また、まったく無かった従軍慰安婦も「あった様に」、
 事実であった様に、子供たちへ刷り込んでいる(反日
 育の刷り込みばかりに重点を置いている)。
  そして、日本の教科書を批判している。
  日本の一部のグループが、日本の歴史の多数を歪曲し
 て教科書を作り、2011年に、日本政府の検定審査を通過
 しているとしている・・
  そして、これは、韓国・中国をはじめとする政治的紛
 争を起こしていると教えている・・自分たちの行為を希
 薄化するために、この様なことを言っている。
  日本が、故意にトラブルを作っているという洗脳をし
 て・・「日本だけが悪い」というイメージを作り上げて
 いる。
  日本は、周辺国と友好的に行きたいと、今まで「何も
 言わずに来た」が、やはり、正しい事実を、認識を主張
 しなければならない状況にある。
  反日観を刷り込まれた韓国の青年が、スポーツの国際
 大会で政治的な行動をするなどの問題が発生している。
  そして、韓国の間違った認識を世界に流布している。
  間違った反日教育で歪められた歴史観を、世界に流布
 している。
  日本の青少年自体も間違った認識を持つように教えら
 れている。
  それは、近隣の周辺国への配慮から、真実を正確に教
 えて来なかった日本がある。
  真実を教えられない日本の青少年は、韓国だけが発信
 する事柄を、その間違った認識をなんとなく持ってしま
 っている。
  朝鮮・韓国の元徴用工は、日本で働いで良い生活をし
 たいということで、志願したことを教えた・・
  また、慰安婦にも「志願者が数多く存在した」ことも
 教えてみたら・・その様な意見聴取をしてみると・・「
 びっくりです」という言葉が返って来る・・
  また、「それでは、話が変わって来ますね」という返
 事にもなる。
  そして、日本で、真実を、何故、教えないのか、教え
 てほしかった・・という言葉にもなる。
  その様なことはわからなかった・・その様な解らない
 状態では誤解を生むので、その様な所まで教えた方がい
 い・・という言葉にもなる。
  近隣への配慮から、日本は、近現代史はプリントを配
 るぐらいで「教えない」という状態になっている。
  「日本軍が無理やり連れ去った」という様なまったく
 嘘の「事実ではないイメージまで生まれてしまっている」。
  日本には、「近隣諸国条項」という、「近現代の歴史
 的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な
 配慮がされていること」と書かれた条項あり・・、
  必要以上に、中国・北朝鮮・韓国に配慮した教科書の
 検定基準がある。
  中国や韓国は、「事実よりも」、政治的にうまく行く
 ようにという観点から歴史を教える形になっている・・
 だから、「事実は二の次」という形から間違った記述が
 なされる教科書が生まれている。
  日本政府も、それに異議を言う訳でもなく、逆に、す
 り合わせる様な状態も生まれている。
  韓国は、「国」が教科書を作っている。
  日本を貶める別の写真には「戦争に動員された幼い学
 生たち」と書いている・・動員という言葉を使って悪い
 イメージ作りをしている。
  韓国の戦争記念館では、朝鮮戦争で活躍した韓国兵士
 の経歴が掲示されて、大々的に説明されているが・・、
  この韓国の軍人たちは、日本と一緒になって、第二次
 世界大戦でアメリカなどと戦った軍人であるが、この経
 歴は、まったく記されず、隠されていて書かれていない。
  日本の軍事教育を受けて、朝鮮戦争でも活躍するよう
 な軍人になったことなど、「まったく説明されていない」。
  韓国は、この様な改竄(かいざん)までして、刷り込
 みのイメージ作りをしている。
  日本を貶めるという一貫した行為が、韓国でなされて
 いる。
  この様な韓国の嘘を、外国メディアが「真実だと思っ
 て」世界へ配信してしまっているという取り返しがつか
 ないことまで起きている。
  日本が、変な配慮から指摘をしないので、この様な事
 まで起きている。
  ロイターという大メディアが世界に配信して・・「間
 違いだった」という「訂正」は、なされていない・・日
 本は、間違いを「されっぱなしになっている」。
  朴槿恵時代の韓国の教科書と、文在寅(むん・じぇい
 ん)時代の教科書はまったく違う・・
  朝鮮戦争の場合、今・現代の文在寅時代は・・、国連
 軍が韓国国民を「虐殺している」から北朝鮮軍が、韓国
 へ入って来た・・という記述になってしまっている・・
  事実は、突如、北朝鮮軍が38度線を越えて攻めて来た
 のに・・国連軍の虐殺も何もないのに・・文在寅は、こ
 の様な内容でありたいという思いで、朴槿恵時代の教科
 書を書き換えた。
  韓国の事を「南韓」と書いている・・北朝鮮の意向に
 沿った書き方となって来ている韓国の教科書の状態。
  小学校の内から、日本帝国主義ということを植え付け
 て、「日帝」という言葉を使って学ぶ。
  日本は、周辺国から孤立していると思い込ませている。
  高校になると、教科書の111頁(全424頁)が日帝の事
 を貶めるというボリューム比率となっている。
  日本の貢献によって、経済的発展をした韓国の姿など、
 少しも記述していない。
  韓国にある「全国教職員労働組合」は、教職員の組合
 だが、北朝鮮の思想であるチュチェ思想など「親北な教
 育を行なう職員」も在籍していて、この様な行為が過去
 に韓国のメディアから批判を受けている。
  この組織が「7割」くらいへ影響を与えている。
  文在寅を支える組合の中核的な組合となっている。
  活動目標は「日韓の分断」と「親北朝鮮」。
  日本が間違いを指摘して、証拠を提示しても無視する
 現状となっている。
  しかし、日本にも、河野洋平官房長官(当時)が謝罪
 するという「韓国に迎合した行為」がある。
  そして、この「間違いの迎合した談話」を取り下げる
 事もしない日本がある。
  結局、日本の態度から認めているという姿もある。
  お互いを理解しようという目的で始まった「日韓談話」
 をしても、韓国は史実はどうでもよいとなって、「韓国
 を悪く言ってそれで良いのか」の感情論となる。
  事実認定から始めて、事実の認識を積み重ねようとい
 う目的が果たせない。
  まず、日本は、韓国がそうであっても・・、
  世界中で、事実ではない悪宣伝をしている韓国の行為・・
 この様な行為を止める様にしなければならない。
  河野談話の当時は、その様な事も言って、その様な歴
 史認識だったが、間違いだったと、世界や第三国に分か
 ってもらうように・・日本はすべきだ。
  また、日本の青少年にもしっかり事実を教える・・近
 現代史を教えなかったことも反省すべきだ。
  また、歴史問題を利用する「反日的日本人が存在する」
 ことも問題だ・・日本を貶める行為をしている人間が居
 る。
  その様なことをしているのがNHKやNHK職員・・
  そして、朝日新聞東京大学の教授・・京大・一橋大
 の教授たちの行動・・
  大学入試問題の答えに「日本が侵略した」と書かない
 と正解にならないという問題がある・・
  予備校も、この様に教えざるを得ない状態にある。
  https://www.youtube.com/watch?v=MAdfFKqVp_I&list=PLwHocn02O9IZAcGWND9SjCqwmuk5tLBnV
  「反日教育の実態」出演者・・
  司会:上念司(経済評論家)
  西川史子(医師・タレント)
  武田邦彦(中部大学教授)
  藤井厳喜(国際問題アナリスト・評論家)
  須田慎一郎(経済ジャーナリスト)
  井上和彦(軍事ジャーナリスト)
  加藤達也(産経新聞社会部編集委員 元ソウル支局長)
  村上政俊(元衆議院議員・元外交官)
  吉木りさ(タレント)
  鈴原ゆりあ(タレント)
  大高未貴(ジャーナリスト)
  眞鍋由佳(主婦)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/