(増補版)674E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年6月)

題:(増補版)674E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年6月~1897年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
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1897年6月12日、日本機械学会が設立された。
  これは、機械工学とその関連分野の学会・・
  設立の目的:「機械に関する学術、技芸の進歩、発達
 をはかり、かつ工業の発展のためにつくす」・・
  民法第34条により、文部大臣の認可を受けた社団法人・・
  会員数は、1996年3月現在、正員36,616名、准員2,466
 名、学生員5,598名、特別員1,053社の合計45,733名・・
  組織:東京の本部・事務局と・・
  全国各ブロックに置かれた8支部(北海道、東北、関
 東、東海、北陸信越、関西、中国四国、九州)・・
  および、20部門(計算力学、バイオエンジニアリング、
 材料力学、機械材料・材料加工、流体工学、熱工学、エン
 ジンシステム、動力エネルギーシステム、環境工学、機
 械力学・計測制御、機素潤滑設計、設計工学・システム、
 生産加工・工作機械、FA、ロボティクス・メカトロニク
 ス、情報・知能・精密機器、産業・化学機械、交通・物流、
 宇宙工学、技術と社会)・・からなる。
  (参考)FA:Factory Automation(ファクトリーオ
     ートメーション) ・・ 工場の自動化
  日本人のために、日本人が設計・製造し、日本人がそ
 れを使い生活するところから機械の国産化の歴史が始ま
 る。
  日本の産業革命は、この学会が設立された時期とほぼ
 同時期に確立したと言われている。
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1897年6月16日、あめりかが詭弁のハワイ併合をする。
  米・ハワイ併合条約が調印され、ハワイ併合がなされ
 た。
  日本政府は、この不誠実なアメリカの行為に対して抗
 議を行った。
  (参考)詭弁:きべん、道理に合わない、言いくるめ
     の議論。ごまかしの議論。
 「詭弁を弄(ろう)する」。論理学で、相手の思考の混乱
 や感情につけ入って相手をだます、見掛け上は正しそう
 な、虚偽の推論。
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1897年6月17日、神奈川県の船大工の360名が同盟罷工を行
 なった。
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1897年6月18日、京都帝国大学(後の京都大学)が創立した。
  (6月22日説あり)
  創立以来「自由の学風」を建学の精神としている。
  日本で2番目に創設された、帝国大学の流れを汲んでい
 る国立大学・・
  大学の起源は、1861年9月20日文久元年8月16日)に
 長崎に設立された長崎養生所(後、長崎精得館へ改称)
 まで遡る。
  1949年、理学部教授・湯川秀樹が日本人初のノーベル
 賞に輝いた。
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1897年6月20日高山樗牛(たかやまちょぎゅう)が、日本
 主義を提唱した。
  文学者、文芸評論家、ジャーナリスト、美学者、倫理
 学者、
  1871年1月10日、山形県に生まれる・・山形県鶴岡の酒
   井藩士の子(旧庄内藩士斎藤親信・ちかのぶ、芳の
   次男として生まれる)
  1873年(2歳)高山家の養子へ(父方の伯父・高山久
  の家)、養父の転勤で山形、福島と移る・・
  少年期から投書雑誌「穎才新誌」や地元新聞に投稿す
 るなど、文才を発揮する。
  1886年(15歳)上京し、東京英語学校に入学・・
  1887年(16歳)第二高等学校に入学(1888年説あり)
  1891年(20歳)学校の有志らと語らって「文学会雑誌」
   を創刊し数編の論文を載せた・・そこに、人生への
   懐疑、文学への志向などすでに浪漫主義のモチーフ
   があった・・
  1893年(22歳)東京帝国大学文科大学哲学科に入学。
  1894年(23歳)大学在学中、「平家物語」に材を取っ
   た悲恋物語歴史小説「滝口入道」を日就社の懸賞
   募集に応募し、当選し「読売新聞」に掲載された。
   一躍有名になったが、以後は小説の筆を執らなかっ
   た。
   学問の活性化を目指してエッセイストの道を選択し
   た・・
  帝大文科大学の帝国文学会機関誌「帝国文学」や博文
 館の雑誌「太陽」などに、それまでの戯作を批判し理想
 主義的文学を高く評価する評論を次々と発表し、注目を
 集める。
  1895年(24歳)「帝国文学」発刊に参加・・上田敏
   姉崎嘲風(あねさきちょうふう)らと編集委員となる・・
   近松文学に託して自らの思いを吐露する・・「愛」
   こそ「人生に対しては幸福の最大なる源」であり、
   「情死」こそ「幸福なる愛の最後」と書く・・
  1896年(25歳)大学卒業と同時に第二高等学校教授に
   就任し、一時、中央論壇から離れる・・が・・評論
   への志望が強く、翌年4月、二高教授を辞職し博文館
   へ入社・・
  1897年(26歳)「太陽」を主宰し復帰(主幹を務める)・・
   鋭い批評文を精力的に書く・・それとともに、東京
   帝国大学や東京専門学校(早大)に出講する。
   国家を史上の人格的存在ととらえ(国家至上主義)、
   それを自我の独立と直結する日本主義を井上哲二郎
   らと唱えた・・論壇を領導(りょうどう、統率して
   指導すること)する・・日本主義を太陽に掲載・・
   木村鷹太郎らと大日本協会を起こし、機関誌「日本
   主義」を創刊した・・
  1900年(29歳)欧州留学を目の前にして、突如、血を
   吐いて倒れる・・
   次いで、ニーチェの死に際し、大いに感化を受ける・・
  「美的生活を論ず」等でニーチェの思想を賛美し、ニ
  ーチェ主義を主張する・・個人主義へ転換・・本能満
  足主知を主張し、浪漫主義宣言として反響を呼ぶ・・
  ニーチェへ傾倒は、ニーチェを天才主義の文明評論家
 として解釈し礼讃する・・ニーチェの強烈な「超人」的
 な個性に魅かれて行く・・「美的生活を論ず」など大き
 な反響を引き起こした・・
  この天才主義、主我主義は、理想の人格を日蓮に見い
 出し、崇拝し傾倒した・・日蓮を絶対的な予言者と見た・・
  1902年(31歳)文学博士となる・・
  明治35年12月24日(1902年)歿、32歳
  死の直後、桑木厳翼(くわきげんよく)が、樗牛の「煩
 悶(はんもん、浪漫主義~日本主義~個人主義の三変)は、
 一貫して一つの問題に触れて居(い)」た、それは「人生
 問題と云(い)ふものゝ解決であつた」と述べている・・
  このように、変転する彼の思想遍歴のうちに新しい時
 代の刻印をはっきりと見ることができる。
  著「美的生活を論ず(1901年)」「わが袖の記(1897
 年)」「文明批評家としての文学者(1901年)」「平家
 雑感(1901年)」「平相国(1902年)」「日蓮上人と日
 本国(1902年)」「日蓮と基督(1902年)」「日蓮上人
 とは如何なる人ぞ(1902年)」など。
  言葉:己れの立てるところを深く掘れ、そこには必ず
    泉あらん
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1897年6月26日、河口慧海(えかい)が、チベット調査に出
 発した。
  河口慧海(かわぐちえかい)、黄檗宗の僧侶、仏教学
 者、チベット探検家、大正大学教授。
  「チベット旅行記」など著書多数。
  中国や日本に伝承されている仏典に疑問が指す・・従
 来の漢訳仏典の正確さに疑問を抱いた。
  仏陀本来の教えの意味を知りたいと・・それが分かる
 物を求める・・梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を
 決意・・チベット語原典の研究を志して、インドからチ
 ベットへ密入国・・
  日本人で初めて首都・ラサに至り、チベット一切経
 どの多数の貴重な資料を将来(しょうらい、持って帰る
 こと)した。
  「西蔵旅行記」「在家仏教」をはじめとして数多くの
 著作を残している・・慧文社から著作選集も出版されて
 いる。
  1866年(慶応2年)摂津国堺山伏町(現:大阪府堺市
 区北旅籠町西3丁)生まれた。
  1899年(明治32年)(33歳)1月、仏陀成道の地ブッダ
   ガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパー
   ラ居士より釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔
   とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿
   り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと
   託された。
  1900年(34歳)7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ド
   ルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)
   を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成
   功した。
  1902年(明治35年)(36歳)5月上旬、日本人だという
   素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計
   画した。
    親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬
   屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典
   などを馬で送る手配を済ませた後、
  1902年(36歳)5月29日、英領インドに向けてラサを脱
   出する。
   捕まった者たちが投獄の上、責め苦に会っていると
   いう情報を聞きながら・・ネパールへ
  1903年(37歳)3月、慧海が自ら書いたチベット法王ダ
   ライ・ラマ宛ての上書をネパール国王を通じて法王
   へ送ってもらう事に成功・・また、国王より多くの
   梵語仏典を賜る。
  因みに、1887年(明治20年)前後から、日本仏教界に
 は「入蔵熱」(チベット入国フィーバー)が起こってい
 た。
  何人もの有為の仏教徒が、ヒマラヤ山脈からチベット
 高原にかけ、果てしなく広がる「未テラ・インコグニタ
 知の土地」の探検に名乗りを上げていた。
  当時、チベットは国が閉ざされていた。
  チベットの内情はほとんど知られない国だった。
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  (教の言葉)
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  題:
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紀元前7200万年、この頃の恐竜の骨が、北海道で見つかっ
 た。
  全身骨格の可能性がある。
  希少な例。
  2013年9月から本格発掘を開始する。
  ハドロサウルス科の恐竜。7.2トン。
  全長8メートル。白亜紀後期。
  顎(あご)と歯。
  800~1000本の歯を持っている。
  植物を食べていた。
  裸子植物も食べる歯だった。
  2014年9月、頭部発見を目指す。
  歯の化石発見。頭もあるはず ⇒⇒ あった。
     ・
     ・
     ・
9世紀~10世紀、神聖ローマ帝国が成立した(1806年まで
 続いた)
  神聖ローマ帝国は、ローマ皇帝が頂点に居る国家だっ
 た。
  しかし、それはプロセイン、オーストリア、バイエル
 ンなどの「領邦国家」や、ハンブルク、ケルンなどの「
 自由都市(帝国都市)」が350くらい集まって構成されてい
 た。
  この領邦国家の下には、農村や領邦都市があった。
  それらは、領邦君主の政治支配は受けるが、都市はお
 おむねギルドなどの市民の団体によって運営されていた。
  農村は、東部などでは領主が直接経営する場合もある
 が、西部ドイツでは、村の運営も村人自身にゆだねられ
 ているのが多かった。
  領邦国家自由都市が集まって一つの有機体の「神聖
 ローマ帝国」を構成していた。
  1806年、この神聖ローマ帝国が、ナポレオンによって
 命脈を絶たれた。
  そして、この頂点に居た君主は、絶対君主として「キ
 リスト教の神」から授けられたと、長い間、ヨーロッパ
 で、何らかの政治的主張の根拠とされたのが、いつも「
 キリスト教の神」だった。
  この考え方も、命脈が絶たれる時代となっていた。
  啓蒙主義者たちは、「人間の持つ理性を気付かせた」。
  君主の権力の源にキリスト教の神へ求め王権の絶対性
 を主張し唱える「王権神授説」があったが、これを批判
 した。
  啓蒙主義者たちは「歴史の主体を人間に於いてその根
 拠を説いた」。
  「キリスト教の神の姿」が消える時代となった。
  当然の人間主体の正当な論理だった。
     ・
     ・
17世紀〜18世紀半ば、ヨーロッパに列強諸国が成立した時
 代。
  各々の個性が異なるフランス、イギリス、ロシア、オ
 ーストリア、プロイセンが成立した。
  そして、これから、世界で悪さを始める。
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17世紀、綿に関わる産業が、17世紀のイギリス産業革命
 主要産業となった・・ここにインドの犠牲があった・・
  綿花を原料とする木綿・綿織物は、インドが原産であ
 る。
  12世紀になって中国へ伝わり、重要な産業となった。
  また、西方にも伝わり、イスラム世界を経由してヨー
 ロッパにも伝えらられた。
  17世紀のイギリスの産業革命の主要産業となって、イ
 ギリス産綿布は、インドや中国に運ばれ、大きな経済的
 変動の要因になった。
  インドには、豊かになる素地があった。
  広い国土に、そして、その沃野に綿は良く育った。
  また、綿工業もよく育っていた。
  しかし、イギリスは、このインドを単なる綿の原料供
 給国に貶(おとし)めてしまった。
  インドの綿産業を奪い、綿製品の消費国にして利益を
 収奪した。
  イギリスは、綿工業の製品を大量生産し、インドの産
 業を潰した。
  それは、イギリスの目的通りのけいかだった・・
  そして、イギリスは、産業革命がさらに進んだ。
  逆に、インド綿産業は破壊されて、そして、無くなっ
 た。
  そして、インドは、イギリスの市場となって落ちぶれ
 た。
  これを、イギリスは、インド社会を「文明化した」と
 称した。
  キリスト教の神の「倫理的信託だ」と称した。
  イギリスに、「インドを文明化する使命があった」と
 論じた。
  発展途上のインドに、「半未開状態に居る事を押し付
 けた」。
  「停滞状態に居る事を押し付けた」。
  そして、イギリスは、インドを支配した。
  自身は、これを「天命だ」「義務だ」と称して、侵略
 状態を正当化した。
  この様な「ヨーロッパ諸国の『偽善論』で世界の支配
 が行われた」。
  フランス・ドイツの列強諸国も、競い合いながら、同
 様にして「世界で収奪した」。
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1642年、イギリス議会とイギリス王室が内戦を起こした。
  10年間にわたる大戦争で、何十万人という犠牲者を出
 した。
  クロムウェルが率いる議会軍が王朝軍を破り・・
  1649年、国王のチャールズ一世を処刑し・・
  共和制を宣言した(ピューリタン革命、1642年~1649年)
  イギリス王室は途絶えた・・
  そして、このイギリスの共和制も、クロムウェルの死
 去によって終わった・・
  1660年から、王政に再び復帰した。
     ・
     ・
18世紀末、この頃に至ると、キリスト教国のヨーロッパ諸
 国は、やっと『劣等感から』立ち直ることができた。
  18世紀の初めに知った、特に、「中国の事実」は衝撃
 的だった。
  まず、中国の歴史の事実が、キリスト教の構築して来
 た「歴史を完全に破壊した」。
  そのキリスト教の歴史の空理空論が実証された。
  しかも、その中国の「史実は、確かなもの」で崩すこ
 とが出来なかった。
  キリスト教の架空の作り話が痛烈に指摘された状態に
 なった。
  そして、この打ちのめされたヨーロッパは、この状況
 から立ち直るためにとった方策は、「徹底的な中国やア
 ジアの卑下だった」。
  2000年以上前に、ヨーロッパが影も形も無かった頃に、
 中国は立派な社会・文化・文明を築いていたが・・「そ
 の状態で進歩は停止し、今は、その古いままにある」と・・
 屁理屈を言った・・
  この徹底的な蔑(さげす)みによってヨーロッパは、
 やっと立ち直った。
  中国が、世界最古で、かつ現在でも最高の民族である
 ことを認めますが、その水準に停止している・・と、「
 200年前のヨーロッパ」のままだ・・と・・
  ヨーロッパは、何ら根拠のない「こんな薄ら根拠」で
 立ち直った。
  卑劣な「中国やアジアの差別化によって」自らを慰め、
 そして、救われた。
  モンテスキューは、自著「法の精神(1748年)」で、
 政体がヨーロッパでは「専制政体や君主政体」で自由を
 基礎として、文化の進歩や発展が生じるが・・
  中国やアジアは、古来から常に専制政体が存続してい
 て、その政体は、「人間の隷属を基礎としている」ので、
 文化も変化せず進歩もしないし、停滞していると決め付
 けた。
  その様なヨーロッパは、中国やアジアは、暖(あった)
 かいからそうなるのだなどと、もっともらしい風土論で、
 その自信回復を支持した。
  アジアを無気力とし、ヨーロッパは、強い国と強い国
 が接し、互いに接して、その国々は、ほぼ同様な勇気を
 持っていると自身を讃美した。
  肥沃で広大な沃野を持つアジアを評価してない、また、
 ヨーロッパのハレムの女性の存在などに目が行ってない、
 また、市民的奴隷制の存在にも目が行ってない。
  ローマなど奴隷制社会である。
  「アジアの政治的な隷属」などヨーロッパが指摘でき
 る立場にはない。
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1806年〜1807年、ロシアは、江戸幕府に、日本との通商を
 断わられた腹いせに、『日本の領土の樺太(現:サハリン)』
 や『日本領の択捉島(えとろふとう)』にある日本の施設
 を襲撃した。
  この様なことを卑劣にも繰り返していた。
  特に、択捉事件の時は、南部藩津軽藩の藩兵と激し
 い交戦をした。
  日本は、退却を余儀なくされた。
  このことを江戸幕府は、隠すことなく全国の諸大名に
 報じた。
  ロシア船蝦夷地襲撃の情報は瞬(またた)く間に全国へ
 広まった。
  「蝦夷地での騒動の噂を禁じた町触(まちぶれ)も出さ
 れたりした」。
  また、「日本国の大恥」「異国之物笑(いこくのものわ
 らい)」などと幕府の軍事面の失点を非難する言葉もあっ
 た。
  攘夷の意識は国民の中にもあった。
  日本近海への外国列強の接近に対する危機感は、幕府
 や大名だけでなく、「一般国民にも高かった」。
  民衆も、地域共同体の運営を通じた政治的才覚が民の
 中にも育っていた。
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1820年以降、アメリカやイギリスの宣教師が次々とハワイ
 へ押し寄せた・・そして・・
  1898年に、アメリカに併合されてしまった。
  その後、英語化が進められ、現在はハワイ語は消滅の
 危機にある。
.
1862年4月4日、ユゴーの「レ・ミゼラブル」が発売された。
  翌日の午後、パリで第一部上下巻6000部が完売した。
  第二部、第三部の発売の日には、朝6時に早くも出版社
 の前の通りは人であふれ、行列の整理のために警察官が
 出勤する騒ぎになった。
  そして、「レ・ミゼラブル」は世界各地でベストセラ
 ーとなった。
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1870年、ダーウィンが「種の起源」を発表したのが1859年
 だった。
  当然、従来のキリスト教聖書の教えるところの人間の
 位置づけと真っ向から対立するため・・
  キリスト教の宗教界は大騒ぎとなった・・
  大きな批判の声が挙げられた・・反対の声が挙げられ
 た。
  そして、論争がなされた・・
  しかし、キリスト教が敗けるのも早かった。
  1870年を過ぎる頃は、キリスト教の命運は尽きていた。
  各国の学界も、進化論に軍配を挙げた・・
  進化論の位置づけもゆるぎないものとなっていた。
.
1896年6月、ロシアは、ニコライ二世の戴冠式に出席した中
 国・清の李鴻章に莫大な賄賂を送り、条約を締結した。
  その条約は、対日秘密条約で「露清防敵相互援助条約」
 (李・ロバノフ密約)だった。
  内容は、条約の標記の内容の他・・
  鉄道敷設権をロシアへ与えるものだった。
  ロシアは、黒龍江省吉林省を通ってウラジオストッ
 クに通じる中東鉄道(東清鉄道)の敷設権を得たのだった。
  さらに、1896年10月、東清鉄道に関する条約が改定さ
 れて、黒龍江省吉林省と盛京省の東三省鉄道とシベリ
 ア鉄道の接続が認められた。
  そして、ロシアは、傲慢にも、1897年12月、中国・清
 を脅した。
  ロシアは、旅順に軍艦を入港させて清を脅し、強引に
 次のことごとを要求した。
  ①黄海沿岸の一港の租借、
  ②工業の独占権、
  ③満州内モンゴルの鉄道敷設権(満蒙鉄道敷設権)、
  ロシアは、シベリア鉄道の有効性を向上したかった。
  この鉄道ですみやかに兵力を東アジアへ運びたかった。
  ロシアの南下政策で、益々、日本海沿岸から朝鮮が、
 ロシアの行動しやすい権益利益領域となって来た。
.
1898年5月、ロシアが、中国・清へ最終的な利益獲得要求を
 した・・それは・・
  ①旅順と大連の25年間の租借、
  ②満州を横断する東清鉄道から旅順と大連までの南支
   線の敷設権。
  ロシアは、これによって満州を通過してその南の旅順
 まで南下できる様になった。
  このことによって、ロシアは、渤海湾とその周辺の制
 海権を得た。
  また、渤海湾に面する天津から北京に至る重要な戦略
 的領域を押さえた。
  そして、この頃、ロシアは、韓国の高宗が親露政策を
 とっていたこともあり、ロシアは、韓国へ軍人を派遣し
 た。
  また、軍事教官の派遣と国王警備の編成について韓国
 側と進めた。
  また、ロシアのアレクセーエフが、韓国の財政顧問と
 なった。
  また、彼は、関税長にも任命された。
  また、露韓銀行も開設された。
  完全にロシアの南下政策の領土獲得政策が日本の水際
 まで迫って来ていた。
.
1898年、イギリスのアジアにおける政策が大転換した。
  その原因は、大胆な行動をするロシアだった。
  この年、ロシアは、中国・清をまったく馬鹿にした威
 圧的な条約を結んだ。
  イギリスにとって一番気になったのは渤海湾、および、
 その周辺のロシアの『制海権が確立』したことだった。
  このことによって、ロシアは、中国の首都・北京への
 海上要路が制圧できる様になった。
  それでなくても、ロシアは、武力的にまた威圧的に領
 土を奪い、十二分に陸上の要衝を抑え、戦略的優位を持
 つに至っていた・・陸上でも制圧していた・・
  ロシアの行動は、単に、経済的利益を得るという行動
 だけではなかった。
  この様なアジアのバランスを崩す侵略国家・ロシアの
 出鼻をくじいたのが日本だった。
  日本は、日露戦争で、この侵略国家・ロシアの出鼻を
 くじいたのだった。
  また、日清戦争で中国・清は、日本との戦いに敗け、
 韓国を属国としていた冊封体制を止めさせられた。
  これは、単に、韓国を独立させたというだけの話だけ
 でなく、東アジア諸国にも影響を与えた。
  中国の冊封から逃れさせた。
  その様な中国へ、また、東アジア諸国への利権を求め
 てヨーロッパ列強諸国が寄り付いて来た。
  ただ、ロシアの領土的侵略的野心を持った行為は、単
 なる経済的利権を求める「今までの形」を変えて、侵略
 国家丸出しで・・ロシアは覇権を構築して来た。
  今、中国が、南シナ海の戦略基地化の侵略的事例の様
 に・・今、中国は、この時のロシアの様な行為をしてい
 る。
  この時の、卑劣な条約によるロシアの進出に、イギリ
 スは、方針を大転換した。
  ロシアの圧倒的な戦略的優位の確立という事態を黙過
 できないとした。
  1898年5月、イギリスは、ロシアへの対抗措置として、
 渤海湾の反対側に、威海衛を軍港として中国・清から租
 借した。
  また、1898年6月、すでに手にしていた香港島の対岸(
 中国本土の側)の九竜半島を99年の租借をした。
.
1920年代〜1930年代、日本は、この頃、盛んにコミンテル
 ンの策動にあった・・が、しかし、それに対して日本は
 あまりにも無防備だった。
  そして、今、日本は、中国の膨大な金と人(工作員)の
 策動を受けているが、それに対する防備が「無策」と言
 われている。
  日本は、今、諜報機関が必要とされている。
.
1996年~1997年、NHKの岡山局の放送部長が、架空の飲
 食費名目で着服、90万円の詐取(さしゅ、金などをだま
 し取ること)をしていた。
.
1998年~2000年、NHKの編成局のチーフプロデューサー
 とEPが、1998年から2000年にかけて、カラ出張をして、
 架空経費請求を繰り返した。
  これによって300万円を着服した。
.
2000年、怪(あや)しい日本のメディア
  スパイ容疑で北朝鮮で逮捕され、拘留された日本経済
 新聞の元記者の杉島隆という人が居るが・・
  結局、この年に、1年半の拘留の後に、杉島氏は釈放さ
 れた。
  しかし、この時、TBSが怪しいニュースを報じた。
  TBSは、特ダネの様に「現在、北朝鮮に拘留中の杉
 島氏に死刑判決が出ました」と間違いニュースを報じた。
  実際は、釈放されたのにである。
  何で、こうなったのか?
  これは、北朝鮮からTBSに偽の間違った情報がリー
 クされ、流されたのを、TBSは、喜び勇んで特ダネ的
 に放送したのだった。
  そして、この事によって、TBSという放送局は、北
 朝鮮と、この様なニュースが流れる特別な関係を持って
 いることを露呈してしまった・・ばれてしまった。
  また、不思議な事に・・
  この時、北朝鮮の取調官(北朝鮮という国の官吏)が、
 この釈放された日本経済新聞元記者の杉島氏に、「日本
 のメディアは、おまえの事をちゃんと報道するかな」と
 言っていたという・・?
  TBSと北朝鮮の怪しいつながりが感じられる言葉だ・・?
  そしてまた、日本の国民は、この様な報道機関の、こ
 の様なレベルのニュースを聞かされているということ。
  杉島氏は、日本に帰国後、この事情を聞くために、T
 BSの偉い人を訪問した・・しかし、無視されたという。
  重責を担う報道機関であるなら、当然、この事情を国
 民に明らかにする行動を起こすはずだ・・また、責任あ
 る回答をすべきだった。
  ちなみに、日本の大切な報道機関の一つであるこのT
 BSが、一時、赤字で困窮したとき・・外国資本が入り、
 それ以後、この外国資本を意識する放送をしているよう
 に感じられた。
  ある意味、日本の国民のための大切な報道機関の一つ
 のTBSが、資本を出した外国を意識し、ある意味コン
 トロールされた放送姿勢になっていると言えた。
  TBSは、「ある特定宗教」に有利な放送をよくする。
  日本のメディアに、アメリカ系資本が入って来ていて、
 コントロールされている傾向が強くなっている。
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2004年8月、NHKのソウル支局長が不適切な経理処理をし
 ていることが発覚した。
  このNHKの支局長は、1993年~1997年の間、外部プ
 ロダクションへの支払いを、月60万円~210万円も上乗せ
 して請求していた。
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2015年9月5日、NHKの自虐放送。
  NHKの全編が『日本が悪い』の自虐放送だった。
  かくらきよし。経済ジャーナリスト。
  NHKが、氏素性のはっきりしない者に「土曜コラム」
 を話させ放送していた。
  2015・9・5、午前5時50分、NHKラジオ第一、
  天皇陛下が、戦争を宣言したから戦争が始まったと言
 わんばかりの話し方だった。
  また、「現政権が進めている政策が、戦争を誘発する」
 と印象されるような言い方だった。
  全放送を通して自虐的で、日本が悪いのだの言い方で・・
  そして、単純論理の言い方をつなげた放送で、「日本
 の70万の軍隊で、中国各地を占領したから、日本が悪い」
 という言い方だった。
  また、「アメリカやイギリスに挑戦していったから悪
 いのだ」の言い方だった・・こんな放送をするNHK・・
  「アメリカは、我慢していて、そして、満を持してや
 った」と・・、
  「アメリカとイギリスが正しくて、日本が悪い」とい
 う言い方で、公正さはまったく無かった。
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2020年1月7日、元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)訴訟で原
 告代理人を務める弁護士らが、元徴用工問題の解決策を
 検討するため、日韓両国の法曹・政財界関係者らによる
 「共同協議体」の創設を提案した。
  協議が進む間は、訴訟で敗訴した日本企業の資産売却
 手続きを中断する可能性も示唆した。
  以上、2020年1月7日の読売新聞から・・
  これは詭弁だ。
  日韓の条約で、これは「韓国政府が対応する」ことに
 なっている・・この筋から逃げている・・
  正論をどうするかから逃げている。
  問題は、韓国政府にある・・その韓国政府の責任を追
 及していない。
  「日本は、まったく、この問題の関係者ではない」と
 条約で調印されたが・・この件から逃げている。
  韓国がよくやる引っ掛けの「こんな手」にひっかかる
 な!!
  韓国政府よ!! 誠実に対応しなさい・・責任を取りな
 さい!!
  資産売却手続きを凍結するというのなら、韓国が違反
 して、禁輸国へ輸出した物品の日本からの輸出も凍結せ
 よ!!
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2020年1月7日、中国が日本の国会議員に金を掴(つか)ま
 せた。
  不正を働いた・・中国の日本工作の一端が表に出た・・
  中国が、金を使って日本の国会議員の抱き込みを謀(は
 か)った。
  中国がやっている金を使った日本工作の一端が暴露さ
 れた。
  読売新聞2020年1月7日の報道によると・・
  カジノを中核とした日本の統合型リゾート(IR)事
 業を巡る汚職事件で、中国企業側が現金100万円を提供し
 たとしている5人の衆議院議員側の内、日本維新の会の下
 地幹郎衆議院議員(58歳)(比例九州)が6日、那覇市
 記者会見し、受領を認めた。
  下地氏は「深く反省している」と謝罪し、返金の意向
 を示す一方、進退については「後援会と相談したい」と
 述べた。
  5人のうち、公に受領を認めたのは初めて。
  (評)中国からの工作は、金によるものが多いが、様々
    な形で、また、色々な方面から日本を解体をした
    いと、中国工作が行われている。
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2040年、アメリカの白人が、50%以下になり、マイノリティ
 になる・・
  ニューヨーク・タイムズが報じている。
  また、「超大国の自殺」の本で、パトリック・J・ブキ
 ャナンは、アメリカの人口における人種の比率の変化が
 著しい・・と指摘している。
  半世紀前には、白人が90%で、黒人が10%弱だったが・・
 現在、白人は70%以下となり、黒人が15%、ヒスパニック
 系とアジア系で15%と、白人比率の急減少を指摘している。
  国の形も大変化する。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
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  (追伸)
  NHKは、CCTVへ映像を何十年も前から映像資料
 を渡している。
  例えば、一例として、国会の委員会の審議状況の映像
 のすべてを渡している
  CCTVは中国中央電視台で、中国(中華人民共和国
 の国営放送のテレビ局。
  国営通信の新華社とともに「メディア」と言うより、
 中国共産党のための宣伝機関とされている。
  これはスパイ行為である。