(増補版)677E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年8月~1897年9月)

題:(増補版)677E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年8月~1897年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
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1897年8月26日、徳富蘇峰が、内務省勅任参事官に就任し、
 「変節した」との非難を受けた。
  徳富蘇峰は、三国干渉(1895年4月23日)がなされたの
 が「涙さえも出ない程、口惜しかった」・・と・・
  この当時、蘇峰は、記者として遼東半島の旅順に居た。
  そして、ロシア、フランス、ドイツの三国が、日本に
 恐喝的に返還をさせた屈辱行為を肌で感じていた。
  そして、日本も列強諸国並みの力を持たなくては、対
 等の外交などできやしないと考える様になっていた。
  そして、三国干渉の時の第二次伊藤博文内閣の次の第
 二次松方正義内閣に期待し、勅任参事官となった。
  蘇峰自伝には・・
  ・・ただ予が最も遺憾に堪えないのは、「新日本の青
 年」「将来之の日本」「国民之友」その他の予の著書を
 愛読し、真に予の味方である人々が、 恰も自ら裏切られ
 たるが如く感じて、予に対する信用と尊敬の念を失墜し
 たることだ。・・(中略)・・
  予は 固より当初から既に瓦解しかけつゝある松方内閣
 に、一身を投没するのは、予の前途について甚だ危険で
 あることを自覚した。
  しかしその際は 所謂る、「かくすればかくなるものと
 しりながら、止むにやまれぬ大和魂」といふ気持でやつ
 たのであるが、予の知己とも、親友とも云ふべき人々に
 さへも、諒解せられなかつたことは、甚だ遺憾千萬であ
 つた。
  ただ有り難くも予の両親だけは、よく予を諒解してく
 れた。
  世間の毀誉褒貶に拘らず、予の踏んだ道は利害得喪
 打算からすれば、誤つてゐた道かも知れぬが、所謂る人
 間道、紳士道、男子道としては、斯くあるべき筈である
 と認めて呉れたのは、良に予にとつては涙の出るほど有
 難く感じた。
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1897年8月26日 九州鉄道筑豊線の臼井駅~下山田駅間の敷
 設免許され・・
  1898年2月8日に九州鉄道の臼井~下山田間が開通した。
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1897年8月29日、島崎藤村が、詩集『若菜集』を出版した。
  島崎藤村の処女作・第一詩集で、主として仙台時代に
 「文学界」に発表した作品(詩と序詞)が春陽堂から発
 行された。
  近代日本の明治ロマンチシズムのさきがけとして、詩
 情豊かな文語定型詩51編を収め、最初の芸術的開化とし
 て影響力は大きかった。
  典雅な七五定型詩の調べにのせて、青春のみずみずし
 い情感をうたい、恋愛の哀歓、自然への憧憬、流離の旅
 情、芸術への賛歌など、その主題はきわめて多彩。
  日本の近代詩の成立を告げた最初の記念碑として、高
 く評価された。
  官能や恋愛賛美などを謳い、多くの歌人や詩人に影響
 を与えた。
  (参考)序詞:じょことば、じょし、和歌やある種の
     韻文で、ある語句を導き出すためにその前に置
     かれる修辞的語句。
      枕詞と同様の修飾機能をもつが、枕詞が原則
     として五音で被修飾語との関係が固定している
     のに対し、序詞は長さも制限されず自由に創造
     されるという違いがある。
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1897年8月29日、日本鉄道の磐城線平駅~久ノ浜駅間が開通
 した。
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1897年8月31日、トーマス・エジソンが、キネトスコープの
 特許権を取得した。
  スクリーンに映写されるのではなく、箱の中をのぞき
 込む形になる。
  キネトスコープは、世界的に大ヒットし、その後2年
 でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パーラー
 が設置されるほどになった。
  そして、驚くべきことに、エジソンは、1887年に、ニ
 ュージャージー州のウェストオレンジ研究室に移って、
 ここで、動画撮影機・キネトグラフを発明したと言われ
 ているが・・?
  実は、部下のウィリアム・ディックソンが発明したも
 のだった。
  発明者欄に、実際の発明者ではないエジソンの名前が
 書かれたのだろうが?・・これは、「特許無効の要件で
 ある」。
  実際の特許権は成立していない。
  特許権を含む知的財産権を盗む中国のことを言えない。
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1897年8月、日本鉄道が、湯本駅平間駅間を複線で開通さ
 せた。
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1897年9月2日、拓殖務省廃止に伴い、北海道における鉄道
 の監督を内務省に移管した。
  1896年4月2日、台湾総督府を監督する目的で拓殖務省
 (たくしょくむしょう)が設置された。
  高島鞆之助が拓殖務大臣に任じられた。
  1897年9月2日、行政整理により廃止された。
  以後、内務省が台湾事務を担当した。
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1897年9月6日、朝鮮政府が、ロシア軍人を顧問として、ロ
 シア式軍隊を編成した。
  1897年3月17日、駐ロシアの本野一郎代理公使は、前年
 の1896年の軍事教官の派遣について、ロシアのムラヴィ
 ヨフ外相に対して抗議した。
  この根拠は「山県・ロバノフ協定」だった。
  第四条には・・
  「韓国近衛兵及其他軍隊ヲ編成教育ノコトハ日露両国
 ニテ担保スルニ当リテ其分担方並ニ其人員ノ比例等ハ将
 来双方ノ代表者間ノ協議ニ付シテ定ムルコト相約シタ」
 となっていた。
  1897年の朝鮮政府のロシア士官招聘契約も、日本の知
 るところとなり、日本は抗議をした。
  これに対して、ムラヴィヨフ外相の返答は・・
  「( 5月4日)ローゼン氏東京ニ着シ日本政府トノ談判
 相整ウニ至ル迄ハ何事モ決定セサル様、ウェバー氏ヘ既
 ニ訓令ヲ発シ」ている・・と・・
  しかし、この訓令にもかかわらず・・
  1897年7月下旬、ロシア軍士官一行13名が仁川に到着し
 た。
  大隈重信外相は抗議をした。
  1897年8月13日、ムラヴィヨフ外相が回答する・・
  「過般韓国ニ到着シタル士官三名、下士官十名ハ、各
 旧約ニ依リテ同国ニ赴キタルモノニシテ、其延着シタル
 ハ全然旅中ノ都合ニ原因シタルモノナリ」・・と・・
  この発言は、歴史研究者の研究によって、ムラヴィヨ
 フ外相の言い訳であって、また、虚偽であることが明ら
 かとなった。
  問題は、ムラヴィヨフの訓令が、出先のウェーバー
 届かず、さらに、ウェーバー陸相と結んで、軍事教官
 派遣に関して、ムラヴィヨフ外相を無視し、差し置いて、
 皇帝の同意を得ていた。
  ロシアの外交が乱れていたのが原因だった。
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1897年9月20日北陸線福井駅小松駅間が開通した。
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1897年9月25日、山陽鉄道の広島駅~徳山駅間が開通した。
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1897年9月25日、豊州鉄道の行橋駅~長洲駅(現:柳ヶ浦駅)
 間が開通した。
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1897年9月、京都帝国大学内に文科大学として理工科大学が
 設置された。
  日本で2番目に創設された。
  京都大学の起源は、1861年9月20日に、長崎に設立され
 た長崎養生所(その後、長崎精得館へ改称)まで遡る。
  1889年8月1日、第三高等中学校が、京都市吉田町に取
 得した新校地へ移転・・
  1894年、公布された高等学校令に基づいて第三高等中
 学校は旧制の第三高等学校となる。
  帝国大学令が制定後、近畿地方にも帝国大学の設置を
 求める声が上がっていたが、財政難のため見送られ続け
 ていた。
  最終的に、第三高等学校東一条通の南側(現:吉田
 南キャンパス)に移転し、高等学校の土地・建物を大学
 が利用するという案が採用された。
  1896年、予算処置が可決される。
  1897年6月18日、京都帝国大学設置に関する勅令が制定
 され、京都帝国大学が発足した。
  創設時の計画では、1898年、まず法科大学から設置す
 る予定であったが、工科志望者の急増により1年前倒しと
 いう形で、創設と同年の1897年に、京都帝国大学理工科
 大学が設置された。
  敷地と建物には、上京区吉田町(現左京区吉田本町)に
 あった第三高等学校のものが転用され、まず、理工科大
 学(学部)が開設された。
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1897年9月、佐世保要塞が建設を開始した。
  高後崎砲台・面高堡塁砲台が起工
  1891年より佐世保軍港の防禦計画の検討が開始された。
  1893年2月、防禦計画が決定された。
   しかし、日清戦争開戦のため、工事が開始が遅れ・・
  1897年、工事開始・・
  1897年9月、砲台建設開始・・高後崎砲台と面高堡塁か
   ら開始された。
  1901年11月まで、当初計画したすべての砲台が竣工・・
  1934年、江の島砲台が着工・・
  1936年8月、長崎要塞に合併され、佐世保要塞司令部は
   廃庁となる。
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  (今日の言葉)
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  題:1928年1月、アメリカで「対日全面戦争の作戦進捗予想」が策定された。
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16世紀初頭、ロシアのミハイル・ロマノフの即位にストロ
 ガノフ家が貢献する。
  ロシアのストロガノフ家が、ポーランド人からの解放
 戦争では、D.M.ポジャルスキーとミーニン=スホルーク
 の解放軍に莫大な資金援助を提供し、ミハイル・ロマノ
 フの即位に貢献した。
  その後も、財政難に苦しむロマノフ朝諸帝にたびたび
 援助を与えた。
  そのため、ピョートル1世 (大帝) は一家の者を男爵に
 したり、また、パーベル1世は伯爵に叙した。
  ストロガノフ家は、18世紀~19世紀を通じて多くの政
 治家、高官を生んだ。
  (参考)ミハイル・ロマノフ:1596年~1645年、ロシ
     アのツァーリ (皇帝、在位:1613年~1645年) 。
      ロマノフ朝初代のツァーリ
      モスクワ総主教フィラレートの子。
      1613年、動乱時代ののち、ゼムスキー・ソボ
     ール (全国議会) によってツァーリに選出され
     た。
      君主としては凡庸で、1633年まで「大君」と
     呼ばれた父親が実権を握っていた。
      彼の時代にロシアの秩序は次第に回復すると
     ともに、農奴制が強化され、ロマノフ朝支配の
     基盤が確立された。
      当初ゼムスキー・ソボールが重要な役割を果
     したが、帝権が強化されるとともにあまり招集
     されなくなった。
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1558年、ロシアのストロガノフ家がシベリアなどの広大な
 領地をもらう、そして、シベリアへ乗り出して行く。
  ロシアのストロガノフ家が、イワン4世 (雷帝、在位:
 1533年~1574年、1576年~1584年)からカマ、チュソバヤ
 両河畔に広大な所領を得たのをはじめ、その後も、しば
 しばシベリア地方にかけて所領を獲得した。
  それらの土地を開発するかたわら、製塩業、製鉄、木
 材、毛皮売買など広範な事業を営んだ。
  ストロガノフ一家は、町や砦を建設し、私兵を用いて
 ウラル、シベリア地方に進出し、先住民の抵抗を排して
 領地を拡大した。
  その代表的なものが、1581年のコサック首領エルマク・
 チモフェービッチのシベリア遠征・・
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1578年10月、ロシアのシベリアへの東進が開始される。
  ロシアは、ウラル山脈の西に展開するヨーロッパの国
 である。
  そして、そのウラル山脈分水嶺以東の北アジア地域
 は、「シベリア」という。
  ここシベリアも、南極の様に、南極は条約によって領
 有権の主張は凍結されているが、シベリアの領有権主張
 も凍結されるべき地であった。
  最初に、ロシアからシベリアへ侵入したのは、正規ロ
 シア軍ではなく、ウラルの西側のカマ川やチュソヴァヤ
 川流域を領地としていたストロガノフという商人の私兵
 たちだった。
  当時、すでに枯渇していたウラル以西の毛皮資源に替
 わる、豊富な毛皮資源を求めた。
  そのため、シベリアへ進出し毛皮を求めるためだった。
  (参考)ストロガノフ家:ロシアの富裕な商人、産業
     家の家系。
      白海沿岸の農家から発し、16世紀初めアニカ
     がソリビチェゴツクで製塩業を営んで以来栄え
     た。
      1558年イワン4世 (雷帝)からカマ、チュソバ
     ヤ両河畔に広大な所領を得たのをはじめ、その
     後もしばしばシベリア地方にかけて所領を獲得、
     それらの土地を開発するかたわら、製塩業、製
     鉄、木材、毛皮売買など広範な事業を営んだ。
      一家は町や砦を建設し、私兵を用いてウラル、
     シベリア地方に進出し、先住民の抵抗を排して
     領地を拡大した。
  そして、シビル・ハン国が、1572年に、毛皮の朝貢
 拒否したことでロシア・ツァーリ国のシベリア侵攻は決
 定的となった。
  この時のロシア人私兵は、コサックと呼ばれた。
  これらを率いたコサックの首長イェルマークによりシ
 ベリア征服が進められた。
  イェルマークは、1578年10月に、東進を開始し・・
  シビル・ハン国を攻撃、イェルマーク自身は途中戦死
 するものの、ついに、1598年シビル・ハン国は滅亡した。
  その後、ロシア人は、東進を続け・・
  1636年には、コサックのイヴァン・モスクヴィチンが
 オホーツク海へ至り、ロシア人はシベリア横断を達成し
 た。
  シベリアはロシア人の植民地となった。
  (参考)シビル・ハン国:シャイバーニー朝の一族ク
     チュム・ハン (在位:1556年~1598年) の建て
     た国家 (1556年~1598年) 。
      首都は西シベリアのイルティシュ、トボル両
     川の合流点トボリスク南東のシビル。
      ロシアのエルマク・チモフェービッチの攻撃
     を受け、クチュムはシビルから逃れたが、エル
     マクの死後、再びシビルに拠った。
      しかし、ロシアの攻撃に抗しきれず、クチュ
     ムは、1598年8月、オビ川流域で敗れ、シビル・
     ハン国は滅亡した。
      シベリアという名称はこのシビルに由来・・
  ウラル山脈の西=ヨーロッパの地に居たロシアは、東
 への領土拡張行動(侵略行動)を始めた。
  延々と続けたその侵略行為は、太平洋にぶつかると南
 下政策を始めた。
  そして、延々と続けた侵略地の連絡・物質移動のため
 にシベリア鉄道を敷設した。
  これと同じ頃、イギリスは、南の海を東へと領土を拡
 張していた。
  ロシアが、極東の地に来た頃、イギリスも、やはりそ
 の頃、極東の領域に達していて、南下するロシアと対決
 することになる・・
  このことをイギリスは予想していた。
  故に、ロシアのシベリア鉄道の敷設によるロシアの侵
 略領域の確実化行動は、日本だけでなくイギリスも気に
 していた・・
  シベリア鉄道によって、ロシアの武力の移動が容易に
 なった。
  ロシアの武力が容易に運ばれて来るから・・
  この武力を伴ったロシアの南下は軋轢を生んだ・・
  既存の権益者の欧米列強諸国と日本との間で軋轢を生
 んだ。
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1581年、コサック首領エルマク・チモフェービッチのシベ
 リア遠征。
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1598年8月、シビル・ハン国がロシアに滅ぼされ滅亡
  シビル・ハン国:シャイバーニー朝の一族クチュム・
 ハン (在位:1556年~1598年) の建てた国家 (1556年~
 1598年)
  首都は、西シベリアのイルティシュ、トボル両川の合
 流点トボリスク南東のシビル。
  ロシアのエルマク・チモフェービッチの攻撃を受け、
 クチュムはシビルから逃れたが、エルマクの死後、再び
 シビルに拠った。
  しかし、ロシアの攻撃に抗しきれず、クチュムは、1598
 年8月、オビ川流域で敗れ、シビル・ハン国は滅亡した。
  シベリアという名称はこのシビルに由来する。
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1841年4月、三元里事件(さんげんりじけん)
  中国のアヘン戦争の最中に発生した反イギリス運動。
  平英団事件ともいう。
  1841年4月、広東協約が締結され、広州を攻撃するイギ
 リス軍と中国・清軍は休戦状態に入った。
  そこで四方砲台を占拠していたイギリス軍 1000人余が
 撤退のため、広東省城北方の三元里を通過しようとした
 とき、長槍、剣などで武装し、平英団の旗を掲げた村民
 に包囲攻撃され、多数のイギリス兵士が殺傷された。
  まもなく広州知府の説得で平英団は解散したが、この
 事件は、広東省民のその後十数年に及ぶ反英運動の発端
 となった。
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1902年4月、ロシアと中国・清との間で条約が結ばれた・・
  その条約「満州還付に関する露清条約」・・
  ①条約調印後6ヶ月以内に、盛京省西南部地方の軍隊を
   撤退させる(第一期)
  ②次の6ヶ月以内に、盛京省残部および吉林省の軍隊を
   撤退させる(第二期)
  ③またその次の6ヶ月以内に、黒龍江省の軍隊を撤退さ
   せる(第三期)
  以上が、ロシアと清国との間で確認された・・しかし・・
  長城に一番近い地域からの撤兵、第一期の撤兵はつつ
 がなくなされたものの・・?
  第二期以降の撤兵に、ロシアは応じなかった。
  1903年4月18日、ロシアは、逆に、撤兵の見返りを清に
 七項目の要求を要求した・・
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1903年4月18日、ロシアは、逆に、「撤兵の見返り」を清に
 要求した(七項目の要求)・・
  新聞報道では(1903年1月13日の記事)・・
  「露国自ら満州より撤兵す」と言ひ、既に其の第一回
 撤兵を終われりと曰ふも、是れ全然事実に非ずして彼は
 依然満州の占領を継続しつつあり、現に其の撤退したり
 と称する軍隊は僅かに服装を更たるのみ」
  ロシアの軍人は、軍服を脱いでいるだけだと報じてい
 る・・実態は、撤兵はなされていないと・・
  第二期の撤兵が近づく1903年2月16日の記事には・・
  近づきつつある第二次撤兵期限に際して、ロシアは表
 面上の撤兵をするだろう・・と書いている。
  ほとんどのロシア兵は、東清鉄道敷地圏内に入って、
 兵装を解いて人夫に偽装して、実態は撤兵しないだろう
 ・・と書いている。
  この時、日本は、清との条約に於いて、最恵国待遇条
 項があり、ロシアがこの様な状況であるなら、同様な状
 況を日本に与えてもらいたいとしている。
  日本は、この様な形で、しっかりロシアの撤兵を要求
 していた。
  強力な武力を背景にロシアが強硬な態度を取っていた。
  今・現在の中国が、やはり強力な武力を背景に、何ら
 根拠のない南シナ海を戦略基地としてしまった状況と同
 じ・・
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1914年7月28日、第一次世界大戦(~1918年11月11日)
  日本には、この大戦に参加する意思と理由は無かった。
  1914年8月4日、日本は中立を宣言した。
  しかし、イギリス政府の日本の参戦についての対応が
 二転三転した。
  1914年8月7日、イギリスは「日本のドイツに対する正
 式な宣戦布告を伴わぬままで、極東におけるドイツの仮
 装巡洋艦を攻撃するよう」日本政府に要請した。
  この後、イギリスの態度は転々と変わるが・・
  日本国内の議論においても「参戦反対意見」が原敬
 高橋是清尾崎行雄井上馨、山形有朋など重鎮から出
 るほどだった。
  この戦争に参戦したのは、イギリスからの要請で参加
 した様なものだった。
  そして、大隈重信首相は「今回の参戦には領土的な野
 心はない」と述べていた。
  1914年8月15日、日本はドイツに対して最後通牒を行な
 った。
  1914年8月23日、日本は1週間の回答期限を設けるとい
 う異例の対応を行なったが、ドイツは、結局、これに回
 答せず、日本は、この日に宣戦布告をした。
  イギリス海軍は、カナダ西岸での通商保護を日本に依
 頼した・・
  また、イギリス領シンガポールへの日本艦隊の派遣を
 要求するなど、日本海軍への期待を大きくしていた。
  チャーチル海軍大臣(後のイギリス首相)でさえ、日
 本への戦域制限をするのは日本に対しての敵対的で(失
 礼)であり、参戦を日本に求めたのであれば、その様な
 (要求はしないで)日本の制限のない要求を認めるべき
 だ」とグレイ外相に伝えていた。
  この第一次世界大戦から日本が学んだことは、「経済
 封鎖の恐ろしさ」と、さらなる「総力戦となる戦い方」
 となる「これからの戦いの総力戦の重要性」についてで
 あった。
  世界の風潮・・第一次大戦後は、世界はもう戦争はこ
 りごりの意識の中にあった。
  この様な風潮の中で、「国際協調と軍縮」が、世界大
 衆の求める方向だった。
  日本も、この戦後の社会的思潮は無視する訳には行か
 なかった。
  この様な流れの中で、イニシアティブをとったのがア
 メリカで・・各国及び日本は、このアメリカに操作され
 て行く。
  この当時のアメリカは、日本を仮想敵国と早くからし
 ていた。
  (1919年、アメリカで、日本を仮想敵国とするオレン
 ジプランが立案される・・)
  アメリカは、日本と共に第一次世界大戦を戦ったにも
 かかわらず、日本への大幅な軍縮を要求するロンドン海
 軍軍縮会議(1930年1月21日~1930年4月22日)のイニシ
 アティブをとり、操作した。
  この様な姿勢を早くから取り続けたアメリカの姿勢が
 この次に起きる第二次世界大戦を起こす最大の理由とな
 っていた。
  日本は、ロンドン海軍軍縮会議の要求を受け入れたが、
 そのため日本は「軍の近代化」により取り組まなくては
 ならないと意識した。
  また、短期によって決着する戦い方を構想せねばなら
 ならないとした。
  日本をこの様に思わせるアメリカの早期から日本を仮
 想敵国とした罪の大きさが存在した。
  この様な戦い方が構想される中で、この様な近代戦で、
 の遂行において、世界で唯一、アメリカだけが、長期に
 わたる戦争維持の自給自足が可能な理想的状況の中にあ
 った・・
  この様なことは、どこの国も分かりきっていた。
  それに対し、日本は、何もかも資源を他国に頼らなけ
 ればならない状況にあることも分かり切るほど分かって
 いた。
  鉄鋼や石油の基幹の物質でさえ、日本は、自国で何と
 かしたくてもまったくできない依存体質の資源小国であ
 ると十分過ぎるほど自覚していた。
  しかし、アメリカの日本を仮想敵国とする状況から、
 その様な状況に対する対応を構想せねばならない状況に
 置かれされた日本だった。
  それ故に、資源大国のアメリカが、新しい軍艦を建造
 するのに必要な期間(二年以内)に勝敗を決せねばなら
 ないという「短期決戦」を取らざるを得ない方針となっ
 た。
  しかし、1930年4月22日、ロンドン海軍軍縮条約の調印
 はなされた。
  この条約は、アメリカ・イギリス・フランス・イタリ
 ア・日本との間で結ばれたが、完全に日本がターゲット
 とされていた。
  この条約は、主力艦のタガ(制限)をすでに日本に嵌
 (は)めていたので・・この条約では、日本の補助艦(巡
 洋艦、駆逐艦、潜水艦)にもタガ(保有量制限)を嵌め様と
 するものだった。
  日本を完全に仮想敵国としてその仮想敵国の保有量制
 限の枠をがんじがらめにしようというものだった。
  「戦う意思十分なアメリカの様相で、やり方だった」。
  アメリカ5とイギリス5の10に対して、日本を3に押さえ
 込んだ」。
  日本の3(米英の6割)に対して、日本はささやかにも
 (7割)を要求した。
  それに対し、会議に於いて、アメリカのキャッスル駐
 日大使が、「なぜ日本は、軍事的かつ専門的見地からみ
 て対米七割を必要とするのか?」と「ぬけぬけ」と言い
 たいぐらいの発言を日本に対して行った。
  これに対し、日本は・・
  「日本は島嶼(とうしょ、島々)が多く、また、水道
 が多く、かつ海岸線が南北に長く伸びていて、この様な
 状況の中で、極東方面の海洋の安寧を維持する必要があ
 る」などという表向きの説明などせず、日本は逃げずに
 下記のように答えた。
  (参考)水道:すいどう、海において、陸地が両側に
     迫って狭くなった通路状の箇所のこと。水の流
     れる道、あるいは船の通り道という意味。
  日本の回答・・
  「七割要求の専門的な理由を討議するときには、どう
 しても日米戦争を仮想とした上での論議となってしまい、
 この会議場をあたかも小戦場化する危険がある。
  しかし、キャッスル大使との間であるから素直に申し
 上げるが、日本には、日本が七割以下の場合に、アメリ
 カが、日本を攻撃すれば日本は絶対に勝算がない。
  七割であっても、日本がアメリカを攻撃することはも
 とより不可能だけれども、アメリカから攻撃された場合、
 日本には多少のチャンスがあると考えている。
  したがって、日本としては、絶対に勝算がなくてもい
 いという案を提唱することはできない」・・と・・
  しかし、会議のイニシアティブを取り、そして繰るア
 メリカによって、日本は3とされてしまう。
  この時に、日本が言った様な「日本が勝つ見込みが絶
 対ない」という状況が作られてしまった。
  そして、何時、アメリカは、日本を攻撃しても良いと
 いう状況が作られてしまった。
  これから、アメリカは、日本の包囲網を構築し、経済
 的に枠をはめ、資源枯渇に追い込む戦略を進めて行く。
  第二次世界大戦が、アメリカによって作られて行く。
  1930年2月12日、会議をリードするまったく妥協しない
 アメリカに対し・・
  日本の若槻礼次郎全権が、双方の妥協が困難となった
 時点で言ったことは・・
  「此種の談合にては、虚心坦懐の必要を信ずるを以て、
 我方よりも最も率直に申上げんか、日本国民は日本は七
 割の兵力にては米国を攻撃し得ざる事明白なるに反し、
 真の仮定なるが、米国は理論上日本を攻撃し得べく、従
 て米が七割を拒み六割を主張するは、其の場合攻撃に便
 ならしめんとするが為に外ならずとの結論に到達するの
 外なく、此の感想を覆すことは絶対に不可能にして、従
 て我々は七割以下の比率に依る条約には到底調印し能は
 ざる、困難なる立場に在ることを充分諒得せられたし。
 (日本外交文書)
  (評)堂々と正論を発言している。
.
1916年、中国の軍閥・段祺瑞(だんきずい)は、北洋軍閥
 の一人で安徽派の領袖であるが、北京政府の実権を握っ
 た。
  中国の清時代の末、袁世凱の部下となり、中華民国
 立後は陸軍総長に就任した。
  1915年、袁の帝制運動に反対して下野し・・
  1916年、袁の死後内閣を組織して、北京政府の実権を
   握った。
   国内の武力統一政策を推進した。
  1917年、日本の寺内正毅内閣の援段政策を機に日本と
   の結びつきを強め、巨額の借款を獲得した(西原借款)
   日本の軍事的財政的援助により、参戦軍3個師団を養
   成した。
  1918年5月、日中共同防敵軍事協定を締結した。
   政権保持のため、日本に大きく依存した。
   第1次世界大戦後、直隷派の勢力が台頭するなかで
   学生や民衆の反段反日の風潮が強まる・・
  1920年、安直戦争で直隷派に敗れ、天津に一時引退し
   た。
.
1917年、張勲の復辟 (帝政復活) 失敗後、段祺瑞内閣の復
 活、馮国璋大総統の就任とともに段、馮の対立が起り、
 両者の出身地によって安徽派、直隷派と呼ばれた。
  両派の対立は、まず・・
  1917年、中国の第1次世界大戦参加問題をめぐって表面
   化し、安徽派の勝利に終った結果・・
  1920年まで、安徽派が北京政府を支配し、南方派に対
   する武力討伐による国内統一策を推進したのに対抗
   して、直隷派はひそかに南方派のなかの広西派軍閥
    (陸栄廷ら) と結び、安徽派の武力統一策を牽制し
   た。
  1919年、馮の死により曹こんが筆頭となり・・
  1920年7月、安徽派との間の安直戦争に勝ち、以後2年
   間は、奉天派との提携による奉直連合政権時期が続
   き・・英米と結び、江蘇に斉燮元、両湖に呉佩孚を
   配置し、呉は、広東軍閥陳炯明とも、ひそかに連携
   して広東政府の孫文らを脅かした。
.
1920年、安直戦争
  呉佩孚(ごはいふ)は、北京中国、民国初期の軍閥
 あり、山東省蓬莱県の人(1874年~1939年)であるが・・
  中国の清時代の末に、北洋第3鎮 (民国以後は第3師)
 の軍人となり、直隷総督・袁世凱(えんせいがい)傘下の
 曹こん(そうこん)の信を得て、部下として活躍した。
  1919年、曹の後を継ぎ第3師長に昇進し・・
  1920年の安直戦争で、段祺瑞の軍を破り・・
  1922年、第1次奉直戦争で奉天派の張作霖に勝ち、直隷
   派軍閥の巨頭となり、北京を支配した。
  1923年、二・七虐殺(京漢鉄道のストライキ)を武力
   弾圧した。
  1924年、第2次奉直戦争で、国民党の北伐に敗れ・・
   政界を退いたが・・
  1939年、汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府に便乗し、
   日本に協力した。
   日中戦争中に北京臨時政府の綏請委員会委員長とな
   り、まもなく病死した。
.
1920年7月、中国の軍閥の呉佩孚は、安徽派との間の安直
 戦争に勝ち、以後2年間は奉天派との提携による奉直連
 合政権時期が続いた。
  そして、イギリス・アメリカと結び、江蘇に斉燮元、
 両湖に呉佩孚を配置し、呉は、広東軍閥陳炯明ともひそ
 かに連携して広東政府の孫文らを脅かした。
.
1922年末頃~1923年春頃、第一次世界大戦の後、アメリ
 を初め、ヨーロッパの列強諸国が、東アジアに更なる干
 渉を強め、その焦点を中国に置いた・・そして、日本を
 ターゲットへ
  アジアの日本に対して、そのアメリカとヨーロッパ諸
 列強国は、日本への「経済封鎖と総力戦」の様相を見せ
 ていた。
  その様な情勢から、日本にとって、中国の資源の重要
 性は格段に上昇した。
  この様に欧米列強の狙う中国の「この頃の実態」は、
 1922年の末頃から1923年の春にかけての状況は、呉佩孚
 (ごはいふ)を中心とする直隷派が北京政界を支配してい
 た。
  しかし、中国国内は、各派か覇権を争っていた。
  ①段祺瑞(だんきずい)
  ②張作霖を中心とする奉天派、
  ③ソビエト=ロシアに接近しつつあった孫文
  この三者が盟約を結び、直隷派と対抗しようとしてい
 た。
  (参考)呉佩孚:ごはいふ、北京中国、民国初期の軍
     閥。山東省蓬莱県の人。1874年~1939年。
      清末に、北洋第3鎮 (民国以後は第3師) の軍
     人となり、直隷総督・袁世凱(えんせいがい)傘
     下の曹こん(そうこん)の信を得て部下として
     活躍し、1919年曹の後を継ぎ第3師長に昇進。
      1920年安直戦争で段祺瑞の軍を破り、1922年
     第1次奉直戦争で奉天派の張作霖に勝ち、直隷派
     軍閥の巨頭となり、北京を支配した。
      1923年二・七虐殺(京漢鉄道のストライキ)を
     武力弾圧した。
      1924年第2次奉直戦争で国民党の北伐に敗れ、
     政界を退いたが、1939年、汪兆銘(おうちょうめ
     い)の南京政府に便乗し、日本に協力した。
      日中戦争中に北京臨時政府の綏請委員会委員
     長となり、まもなく病死した。
  (参考)直隷派:ちょくれいは、中国の北洋軍閥の一
     派。
      馮国璋、曹こん、呉佩孚、斉燮元、孫伝芳ら
     が中心であった。
      1917年頃にこの名称が生れ、1922年~1924年
     が全盛期で、北京政府を支配下においたが、1928
     年北伐成功に伴う北洋軍閥の全滅によって消滅
     した。
      1917年の張勲の復辟 (帝政復活) 失敗後、段
     祺瑞内閣の復活、馮国璋大総統の就任とともに
     段、馮の対立が起り、両者の出身地によって安
     徽派、直隷派と呼ばれた。
      両派の対立は、まず 1917年の中国の第1次世
     界大戦参加問題をめぐって表面化し、安徽派の
     勝利に終った結果、1920年まで安徽派が北京政
     府を支配し、南方派に対する武力討伐による国
     内統一策を推進したのに対抗して、直隷派はひ
     そかに南方派のなかの広西派軍閥 (陸栄廷ら)
     と結び、安徽派の武力統一策を牽制した。
      1919年馮の死により曹こんが筆頭となり、1920
     年7月安徽派との間の安直戦争に勝ち、以後2年
     間は奉天派との提携による奉直連合政権時期が
     続き、英米と結び江蘇に斉燮元、両湖に呉佩孚
     を配置し、呉は広東軍閥陳炯明ともひそかに連
     携して広東政府の孫文らを脅かした。
      ワシントン会議の際は対日強硬論を唱え、奉
     天派に支持された梁士詒内閣を親日売国として
     非難し、1922年4月~5月の第1次奉直戦争で奉天
     派張作霖に勝ち、以後2年間北京政府を掌握し全
     盛期にあった。
      1923年曹こんは賄賂により総統となり、賄選
     総統の悪名を残した。
      1924年9月~10月の第2次奉直戦争で、直隷派
     は馮玉祥の寝返りにより惨敗し、北京政府は安
     徽派、奉天派、国民軍の支配下におかれた。
      1926年国民軍に対抗して奉直連合軍が「反赤」
     をスローガンにして結成され、国民軍を破って
     北京に奉直連合内閣をつくり、広東の国民政府
     による国民革命に反対したが、1928年国民革命
     軍の北伐成功に伴い、北洋軍閥の各派とともに
     全滅した。
      一部の残党は東北や華北で再挙をはかり、抗
     日戦争中は日本による傀儡 (かいらい) 政権に
     も参加した。
  (参考)段祺瑞:だんきずい、中国の軍閥。北洋軍閥
     の一人で安徽派の領袖。
      清末、袁世凱の部下となり、中華民国成立後
     は陸軍総長に就任。
      1915年袁の帝制運動に反対して下野し、1916
     年袁の死後内閣を組織して北京政府の実権を握
     り、国内の武力統一政策を推進。
      1917年日本の寺内正毅内閣の援段政策を機に
     日本との結びつきを強め、巨額の借款を獲得し
      (西原借款) 、日本の軍事的財政的援助により
     参戦軍3個師団を養成。
      1918年5月日中共同防敵軍事協定を締結するな
     ど、自己の政権保持のため日本の政府、軍部に
     大きく依存するにいたった。
      第1次世界大戦後、直隷派の勢力が台頭するな
     かで学生や民衆の反段反日の風潮が強まり、1920
     年の安直戦争で直隷派に敗れ、天津に一時引退
     した。
      1924年第2次奉直戦争後、奉天派 (張作霖) と
     国民軍 (馮玉祥) に推されて臨時執政に就任。
      1926年3月学生、民衆の請願団に発砲して多数
     の死傷者を出し (三・一八事件) 、同年奉国戦
     争により下野し、大連から天津、南京へと移り、
     上海で死去。
  そして、この様に乱れた中国の財政は切迫し、窮状に
 あり、いつアメリカやイギリスなどの国際管理下に入る
 か分からないという状況だった。
  中国は、政治的に、また、経済的に疲弊した状況の極
 みにいた。
  当時の中国の歳入は4億5000万元、これに対し、歳出は
 6億5000万元で・・大幅な歳出超過の状態だった。
  中国の大きな歳入は「関税」や「塩税」であったが、
 これらの虎の子の歳入は、すでに、アメリカやイギリス
 などの監督下に置かれていた。
  その収入は、米欧の借款の担保としての元利払いに充
 当されていた。
  また更に、その使途についても厳密にアメリカやヨー
 ロッパ諸国の指示を受けるという状態だった。
  この様に手玉に取られる中国の実態を、日本はしっか
 り見ていた、掴んでいた。
  当時、日本は、中国内にしっかりした現地の駐在官を
 広範に持っていて、広範な情報収集組織を持っていた。
  この様な危機的な中国の財政情報を掴んでいた。
  そして、アメリカやヨーロッパの列強諸国が、中国に
 投下した資金が回収が出来ないと見たら、アメリカやヨ
 ーロッパの列強諸国は、中国の大事な歳入の関税や塩税
 に関する管理を「アメリカやヨーロッパの列強諸国の管
 理下に置く動きをする」と予測した。
  それは、1923年5月6日に起きた臨城事件で予測された。
  津浦鉄道の第二特急が、浦口から天津に向かう途中、
 臨城の付近で私兵集団の襲撃を受けた。
  アメリカ・イギリスに虐げられ、暴発した集団だった・・
  アメリカやヨーロッパの列強諸国に恨みを持った集団
 か?・・イギリス人1人が射殺され、外国人の16人が捕虜
 になった。
  アメリカ・イギリスは激怒した。
  イギリスは、北京政府に賠償を求めた(中国は賠償に
 応じた)
  また、責任者の処罰を要求し・・
  さらに・・津浦線に、イギリス人の運転と会計の主任
 を携(たずさ)わらせよ・・と要求した(この要求は、中
 国は拒否した)
  その他の要求から、列強諸国による共同の鉄道管理、
 漢口・上海への共同出兵、海軍による圧迫行動を、北京
 にいる列強諸国外交団の動きをした。
  そして、実態として、税関、塩税、郵政などの部分管
 理をすでに行なっていて・・中国支配に成功していると
 いう列強諸国の状態だった。
  中国の政争が続く中で、徐々に、アメリカやヨーロッ
 パの列強諸国のその力を、鉄道やその他部分の管理へも
 及ぼしつつあった。
  中国の財政破綻が確実化されつつある中で、その列強
 諸国に乗っ取られる状態へ進みつつあった。
  そして、その中心に・・イギリスが居た。
  それに対し、アメリカが、その覇権を横取りして、得
 ようといていた・・イギリスの既得権益を侵害しようと
 していた。
  そして、アメリカは、すでに、無線やバス路線で、多
 大な資本を使って乗っ取っりが完了していた。
  その様な方法を使って、アメリカはその他のところも
 権威者の地位を占め様としていた。
.
1923年、中国の軍閥の曹こんは、賄賂により総統となり、
 賄選総統の悪名を残した。
.
1923年5月6日、臨城事件
  津浦鉄道の第二特急が、浦口から天津に向かう途中、
 臨城の付近で私兵集団の襲撃を受けた。
  アメリカやヨーロッパの列強に恨みを持った集団か?・・
 イギリス人1人が射殺され、外国人の16人が捕虜になった。
  アメリカ・イギリスは激怒した。
  イギリスは、北京政府に賠償を求めた(中国は賠償に
 応じた)
  また、責任者の処罰を要求し・・
  さらに・・津浦線に、イギリス人の運転と会計の主任
 を携(たずさ)わらせよ・・と要求した(この要求は、中
 国は拒否した)
  その他の要求から、列強諸国による共同の鉄道管理、
 漢口・上海への共同出兵、海軍による圧迫行動を、北京
 にいる列強諸国外交団の動きをした。
  そして、実態として、税関、塩税、郵政などの部分管
 理をすでに行なっていて・・中国支配に成功していると
 いう列強諸国の状態だった。
  中国の政争が続く中で、徐々に、米欧列強諸国のその
 力を、鉄道やその他部分の管理へも及ぼしつつあった。
  その様な状況は、日本もよく情報を得ていた。
  中国の財政破綻が確実化されつつある中で、その列強
 諸国に乗っ取られる状態へ進みつつあった。
  そして、その中心に・・イギリスが居た。
  それに対し、アメリカが、その覇権を横取りして、得
 ようといていた・・イギリスの既得権益を侵害しようと
 していた。
  そして、アメリカは、すでに、無線やバス路線で、多
 大な資本を使って乗っ取っりが完了していた。
  その様な方法を使って、アメリカはその他のところも
 権威者の地位を占めようとしていた。
.
1924年9月~10月、第2次奉直戦争
  第2次奉直戦争で、直隷派は、馮玉祥の寝返りにより惨
 敗し、北京政府は安徽派、奉天派、国民軍の支配下にお
 かれた。
  段祺瑞(だんきずい)は、第2次奉直戦争後、奉天
 (張作霖) と国民軍 (馮玉祥) に推されて臨時執政に就任
 した。
.
1924年アメリカで日本を仮想敵国とするオレンジ・プラ
 ンが作られた。
  中国国内に軍閥が林立し、中国国内が四分五列し、乱
 れる中で、イギリスやアメリカの絶大な影響力に組みす
 る者もあれば、日本に助力を求める派もあった・・
  しかし、現実の中国の歴史は、アメリカやイギリス主
 導の国際管理という路線も、また、日本主導の「公平な」
 統一勧告という路線もとることはなかった。
  中国国民党が、ソビエト=ロシアと提携して、その指
 導のもとに、組織や体制をボルシェビッキ的なものに改
 変させていく過程へと進んだ。
  そして、この様な時、1924年アメリカに日本を仮想
 敵国とするオレンジ・プランが作られた。
  そして、この対日作戦計画は、正式な作戦計画として
 大統領の承認を受け、採択された。
  アメリカは、このプラン以外の作戦計画も作られた。
  そして、このプランは・・
  ①第一段階は、日本による攻勢的攻撃の過程・・
  ②第二段階は、アメリカが様々な方法で日本近海に迫
   って行く過程・・
  ③第三段階は、大陸によって資源を補充しようとする
   日本の方策を、空と海からのアメリカの力によって
   封鎖し、包囲し、降伏させる過程・・
 として捉(とら)えていた。
  そして、今後、実際、この様に進んで行く。
  日本が真珠湾を攻撃しなくてはならない方向へ資源封
 鎖などを仕掛けられて行く。
  このアメリカの方策によって、窮地に陥った日本の真
 珠湾攻撃がアメリカの仕掛け通りになされた時、アメリ
 カのルーズベルト大統領は歓喜し、イギリスのチャーチ
 ル首相へ「予定通り行った」と歓喜して電話をし、喜び
 合った。
  (参考)ボルシェビッキ:ソ連共産党の前身。十月革
     命を指導。
      ロシア語で「多数派」の意味。
      1898年、ロシアのマルクス主義者は、ミンス
     クでロシア社会民主労働党を結成したが・・
      1903年、第2回党大会 (ブリュッセル、ロンド
     ン) において、党員の資格をきびしくするよう
     に要求するレーニン派と、それに反対するマル
     トフ派の間に対立が起った。
      レーニンの主張は、28対22(保留1) で敗れた
     が、その後党内における自組織の自治を否定さ
     れたブント派ら7人の代議員が退場したため逆に
     多数派となり、党人事などで優位を占めるよう
     になった。
      このとき以後、レーニン派は自派を多数派と
     称し、マルトフらを少数派 (メンシェビキ ) と
     呼ぶようになった。
      メンシェビキが、当面する革命をブルジョア
     革命と規定してプロレタリアートの従属的役割
     を主張するのに対し、ボルシェビキはプロレタ
     リアートが農民と提携してブルジョア革命を徹
     底することこそ重要であることを説くなど、両
     派の間には党の性格、革命戦術などの点で大き
     な差があった。
      第4回党大会 (1906年ストックホルム) 、第
     5回党大会 (1907年、ロンドン) を合同で開催し
     たにもかかわらず、両派の対立はやまず、1912
     年、プラハで開かれた第6回全ロシア党協議会で、
     レーニンはメンシェビキと袂を分ち、独自の党
     を結成した。
      第1次世界大戦に際しては、敗北主義の立場を
     とり、自国の敗北を革命に転化させることを主
     張した。
      1917年の二月革命後,特に、4月レーニンが帰
     国して、戦争中止、ソビエトによる全権力の奪
     取 (→四月テーゼ ) を呼びかけて以後,ボルシ
     ェビキの勢力は強まり、労働者、農民、兵士の
     間に次第に影響力を増大していった。
      同年10月23日 (旧暦 10日) ボルシェビキ
     中央委員会はレーニンの提唱する即時武装蜂起
     を 10対2で決議、11月7日 (旧暦 10月 25日) 臨
     時政府を倒して政権を掌握した。
      翌年3月党名をロシア共産党と改め、1952年、
     第 19回党大会においてさらにソ連共産党と改称
     した。
.
1926年3月、三・一八事件
  中国の段祺瑞(だんきずい)が、学生、民衆の請願団
 に発砲し、多数の死傷者を出した。
  この年、奉国戦争により下野し、大連から天津、南京
 へと移り、上海で死去した。
.
1926年4月、中国北部で、段祺瑞(だんきずい)が下野した
 後、奉天派の張作霖(ちょうさくりん)が呉佩孚(ごは
 いふ)とともに北京政府を支配した。
  (参考)張作霖:中国の軍人、軍閥政治家。遼寧省生。
      馬賊の出身。張学良の父。
      日露戦争時、機を見て日露双方のスパイとな
     る・・巧みな処世術を持っていた。
      1916年、奉天省の、次いで1919年まで東北三
     省の実権を握る。その後、直隷派と結び、一時、
     日本軍と結び東北の全権を掌握、奉天軍閥を形
     成、奉天派の総帥・首領となる。
      1922年、第1次奉直戦争では直隷派に敗れたが、
      1924年、第二次奉直戦争で直隷派を破り、
      1926年、東三省保安総司令に就任、その勢力
       は東北のみならず華北,華東を経て上海に
       及んだ。
      1927年、大元帥を称し、北京政府を掌握。
      1928年、国民党の北伐軍に大敗。逃亡の途中、
       列車が爆破され死去。
  1926年7月、中国南部では、国民革命軍総司令に就任し
 た蒋介石(しょうかいせき)が北伐を始めるという緊迫
 した状態になっていた。
  1927年末、中国の南京の国民政府がソビエト=ロシア
 との国交断絶に踏み切った。
  しかし、中国におけるソビエト=ロシアの軍事的強大
 化となる。
  何故? アメリカはこの様な情勢の中で、中国の資源
 を巡って日本をターゲットととしてうごめくのか?
  日本を資源的に封鎖したいアメリカがそこにあるが、
 戦争に至ってまでしても良いから日本の資源的封鎖をし
 たいアメリカの方針があった。
  アメリカは、中国の権益が欲しいと「中国の門戸開放」
 を宣言したが、資源に恵まれたアメリカが何故? そこ
 までこだわったのか?
  この様なアメリカに、日本も、アメリカとの戦争を意
 識し始める。
  石原莞爾(いしはらかんじ)は、ロシアの革命で乱れ
 ている今、国力を充実させて、アメリカと対峙するとい
 う意思表示をしている。
  荒唐無稽とも言えるがこの様な流れが生じて来ている。
  この様な風潮の中で、日本の工業が重化学工業化し、
 転換して行った。
  また、この様な風潮が、第一次世界大戦当時の日本の
 陸軍はまだまだ小陸軍であったが、この当時からドイツ
 や赤軍規模の大陸軍に発展して行った。
  技術上でも近代兵器を擁する、技術上に高度な陸軍へ
 と変貌して行った。
  アメリカの執拗な日本封じ込めがこの様な変貌をさせ
 る結果となった。
.
1926年、国民軍に対抗して奉直連合軍が「反赤」をスロー
 ガンにして結成され、国民軍を破って北京に奉直連合内
 閣を作った。
  広東の国民政府による国民革命に反対したが・・
  1928年、国民革命軍の北伐成功に伴い、北洋軍閥の各
   派とともに全滅した。
   一部の残党は東北や華北で再挙をはかり、抗日戦争
   中は、日本による傀儡 (かいらい) 政権にも参加し
   た。
.
1928年1月、アメリカで「対日全面戦争の作戦進捗予想」が
 策定された。
  アメリカは、この中で、「戦争はせいぜい二年」と短
 期と予想していた。
  また・・
  「我々は長期戦を覚悟しなければならない。
  しかし、できるだけ短期間に勝利を獲得できるよう作
 戦行動をとるべきである」・・としていた。
  第一次世界大戦が、1918年11月11日に終わって、もう
 アメリカは不埒(ふらち、道理にはずれ不届きなこと)
 にもこの様なことを暗躍させていた。
  日本に真珠湾攻撃をさせようとする動きが始まってい
 た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/