(増補版)681E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年11月~1897年12月)

題:(増補版)681E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年11月~1897年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
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1897年11月16日、京都鉄道が京都駅~大宮駅間を延伸し開
 業した。
  京都鉄道は、1893年に、設立された民営鉄道。
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1897年11月16日 太田鉄道の水戸駅久慈川駅間が開通した。
  太田鉄道は、茨城県水戸市久慈郡太田町(現:常陸
 田市)を結ぶために建設された私設鉄道である。
  多額の負債をかかえて水戸鉄道へ譲渡された。
  現在の東日本旅客鉄道JR東日本水郡線の一部。
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1897年11月、官営鉄道の主要な駅で手荷物運搬業(赤帽)
 が許可された。
  赤帽は、鉄道の駅構内で旅客の依頼する手回り品運搬
 を業とした。
  赤い帽子を着用した。
  運搬料金は、重さ、個数に関わらず1回2銭だった。
  2006年、岡山駅で廃止され、全国で営業が終了した。
  1896年に、山陽鉄道が姫路、岡山、尾道、広島の駅に
 「荷運夫(にはこびふ)」を置いたのが最初という説も
 ある。
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1897年11月、官設鉄道において、客車等級の上・中・下を
 1・2・3等に改め、客車外部に彩色し各等の区別を明瞭に
 した。
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1897年11月、青梅鉄道が自営となり、甲武鉄道との営業委
 託契約を解除した。
  甲武鉄道の最初は、中野村の深草某が、日本橋から新
 宿・中野・杉並の青梅街道を通って田無まで走らせた馬
 車が最初と言われている。
  甲武鉄道は、多摩や山梨などからの丸太や石灰岩の物
 資を東京へ輸送する目的で開業された。
  当初は、羽村(西多摩)から四谷大木戸(現:新宿区)
 の間を玉川上水に沿って馬車鉄道を走らせる計画だった。
  穏やかな川の流れの勾配で、鉄道敷設にも都合が良い
 と計画され考えられたが、玉川上水の大切な飲み水が汚
 れる許可が下りなかった。
  また、甲州街道に沿っての鉄道敷設の計画もあったが、
 街道の賑わいが奪われるという反対があまりにも激しか
 った。
  青梅街道も甲州街道も駄目となり、武蔵野の原を走る
 ことになる。
  こんな時の言葉・・「青梅街道や甲州街道以外の場所
 に陸蒸気(おかじょうき)を走らせてもお客はない、キ
 ツネやタヌキは蒸気には乗らない」・・
  八王子へめがけて、中野から立川に一直線の線路が引
 かれ武蔵野原を突っ切った・・
  これが、日本で二番目に長い直線区間(25キロメート
 ル)となった・・因みに、一番は北海道にあり、室蘭本
 線の社台から沼ノ端の28キロメートル。
  1889年4月、新宿駅立川駅間が開業した・・
  1889年8月、八王子駅まで延伸された。
  開業時の駅は、新宿、中野、境(現:武蔵境)、国分
 寺、立川の4駅。
  今、ざっと言っても、新宿、大久保、東中野、中野、
 高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪西荻窪、吉祥寺、三鷹、武蔵
 境、東小金井、武蔵小金井国分寺、西国分寺、国立、
 立川の17駅。
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1897年11月、中国社会は大混乱・・ドイツの卑劣な行動か
 ら・・
  中国の山東省で、ドイツ人のキリスト教カトリック
 教師が殺害されたという事件を口実として、ドイツ皇帝
 のヴィルヘルム2世が、中国・山東省へ出兵させた。
  派兵されたドイツ軍は、膠州湾を占領した。
  そして、ドイツは、そのまま、中国・清政府から同地
 を租借地として奪ってしまった。
  欧米列強のやりたい放題の行為の一つだった・・
  この様な中国に於いて、この約3年後の1900年6月20日
 には義和団の乱が起きる。
  経済的にも圧力をかけ、また、社会の規範を崩して行
 くアメリカやヨーロッパ列強の行動があった・・
  軍事力という威嚇を時に使うという行動だった・・
  そして、白人キリスト教徒たちの傲慢さ、キリスト教
 側にばかり有利に事が決まって行く社会だった・・
  この白人たちには平身低頭の中国官僚たちだった・・
  中国の宗教や孔子などが卑屈にみられる行動があった・・
 その様な雰囲気が中国社会に充満していた。
  強引な信者獲得のキリスト教の布教にも不満を持った
 人々=大衆が居た・・
  キリスト教会や聖職者たちへ破壊や殺害への行動とも
 なった・・
  ドイツなどの列強が、清朝政府に抗議し、圧力をかけ、
 清朝の大衆への弾圧も起きる・・
  キリスト教会の建設で土地を強引に奪うこともあった・・
 それに抗議をしても、常に民衆側が不利に決着するとい
 う始末だった・・
  1899年の末になると、アメリカやヨーロッパの列強は、
 強烈に抗議し、政治のトップに死刑を要求する・・
  それほどまでの行動をし(このトップは、結局、処刑
 される)、代わりに袁世凱が赴任しする。
  赴任するとその傀儡(かいらい、あやつり人形、人の
 手先となって思いのままに使われる者)的な袁世凱は、
 義和団を弾圧するという状況だった・・
  翌年の1900年6月21日、中国・清国の西太后が、この反
 乱を支持した。
  このアメリカやヨーロッパの列強に宣戦布告し、国家
 間戦争となった(~1901年9月7日)
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1897年12月1日、片山潜が、「労働世界」を創刊した。
  日本最初の労働組合の機関紙。
  1897年7月、労働組合期成会が結成され、その指導で
 同日の1897年12月1日に鉄工組合が発足した。
  この両者の共同機関紙として12月1日に創刊された。
  主筆片山潜・・月2回の刊・・
  1900年9月から、片山個人の責任経営となる。
  1901年12月21日の第100号で一応廃刊。
  1902年1月1日から、日刊「内外新報」と改題したが続
   かなかった。
  1902年4月3日、雑誌「労働世界」として復刊。
  1903年3月3日から、「社会主義」と改題して社会主義
   協会の機関誌となった・・1904年まで続いた。
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1897年12月1日、鉄工組合が発足した。
  正式名称:労働組合期成会鉄工組合。
  1897年12月、1088名の鉄工 (機械工) によって組織さ
   れた職業別組合。
  鉄工は、印刷工とともに、日本の労働運動の草分けで・・
  組織も定着し、組合として最初のもの・・
  1889年の同盟進工組の先駆的実践と高野房太郎らの労
 働組合期成会の支援が結成に大きく寄与・・
  機関紙「労働世界」の発行や共済活動への傾倒など協
 調的活動であった・・
  一時は全国に 42支部 5400名あまりの組合員を獲得し
 た・・
  しかし、不況と運動経験不足、規制によって、1900年
 の秋頃から急速に衰退した。
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1897年12月1日、日本鉄道が、上・中・下等を1・2・3等に
 改めた。
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1897年12月1日、日本鉄道の上野駅青森駅間の直行列車が
 2往復運転となった。
  因みに・・上野発の夜行列車下りた時から、青森駅
 雪の中、北へ帰る人の群れは誰も無口で、海鳴りだけを
 聞いている・・
  津軽海峡・冬景色の歌詞の一部であるが・・
  この様に直行列車の運転が開始されると、上野駅がタ
 ーミナル駅として機能するようになった。
  この年・1897年、日本鉄道の資本金は6000万円となり、
 日本一の大会社となった。
  1871年の明治になりたての頃、横浜に住む高島嘉右衛
 門は、東京と青森間の鉄道を建設しようと、工部省へ「
 陸奥青森まで鉄道築道の儀」を提出し、日本の鉄道建設
 が始まった。
  高島は、北海道まで結びたいという志があった・・そ
 して、国内で大きい財力を持つ大名華族の方々へ、その
 資金の助力を求めた。
  大きな苦難の山を乗り越えるにも、この方々の助力が
 色々な面であった。
  日本の発展の基盤の鉄道建設の功労者の方々である。
  1891年9月1日、上野駅青森駅間の開通式が行われた。
  出席した井上鉄道局長官は・・、
  「機関車は52両、客貨車は1,000両近く、営業に差支え
 ないだけ揃えることができた。
  会社としての本当の営業はこれから始まるのである」
 などと述べた。
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1897年12月10日、出勤簿調査及諸届取扱規程を制定(鉄作乙
 発第1297号)
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1897年12月15日、ロシア艦隊が、中国の旅順を占領した。
  旅順は黄海に面する水深の深い良港で、唐代以来海上
 交通の要地で、清朝末期には、中国・清朝の北洋艦隊の
 軍港となった。
  1860年には、イギリスとフランスの連合軍が占領して
 いる。
  そして、この年・1897年、ロシア帝国海軍艦隊が清の
 保護を名目に沿岸に来航し、艦隊の武力を背景にした「
 砲艦外交」が行われた。
  さらに、ロシアは、中国・清に対し、満蒙での鉄道の
 敷設を求め、黄海沿岸の港湾の租借なども求めるという
 やりたい放題の要求をした。
  1898年3月、「旅順(港)大連(湾)租借に関する条約」
 がロシアと中国・清の間で結ばれる。
  これによりロシアは、遼東半島の南端の旅順・大連の
 25年間に渡る租借権と、東清鉄道と大連とを結ぶ支線(
 南満州支線)の鉄道敷設権を得て、軍港や鉄道の敷設を
 やり出した。
  これに対し、イギリスは、シベリア鉄道と旅順・大連
 を手にしたロシアが「東アジアで、陸軍のみならず、海
 軍でも優位に立つ」ということを懸念し、1898年5月に、
 中国・清に対して、大連対岸の威海衛を租借の許可をさ
 せた。
  因みに・・1945年、ソ連が旅順を占領管理し、1955年、
 ソ連軍が撤退し、中国海軍の軍港となっている。
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  (今日の言葉)
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  題:1941年1月、日米戦争を回避しようとする努力が始められ、
    「日本提案」という覚書が提出された。
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19世紀後半、中国の行なっている冊封体制は・・
  中国側から言えば、「中国の徳に頼っていれば双方の
 国は安泰なのだ」という考え方の下に・・
  朝貢(ちょうこう)する国を属国とし、宗主国・中国
 の皇帝の臣下とする体制だった。
  (参考)朝貢:ちょうこう、(来朝して)朝廷にみつ
     ぎものを差し上げること。
  朝貢する国の王が、臣下の礼をとった時、中国皇帝か
 らその朝貢国の地域の「王」として資格を与えて貰う。
  朝鮮は、長くこの冊封体制下にあった・・
  伝統的に中国へ朝貢して、冊封して貰っていた。
  そして、虎の衣を借る狐の如く、中国から「朝鮮地方
 の民族的文化的な優越意識を確保」していた。
  宗主国・中国の朝鮮への冊封使が訪れた時には、下に
 も置かぬ接待をした・・手厚い夜の接待も伝統的に長ら
 く行なわれていた。
  この朝貢体制の「定められた儀礼の体系を守っていれ
 ば、朝鮮も安定した状態に居ることができた」。
  この様な冊封体制は・・
  欧米列強が掲げた体制=国際法を遵守して秩序を形成
 する体制と「相入れない状況下にあった」。
  特に、19世紀後半の東アジアには、中国の独自の体制
 を押し付けて良しとする独善性があり、時代にそぐわな
 い状況だった。
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1880年11月30日、山県有朋は、天皇陛下へ「隣邦兵備略表」
 を上奏した。
  山県有朋は、1879年〜1880年参謀本部長という役職
 にあった。
  山県有朋は、日本の国防計画や作戦計画などに関わる
 地位だった。
  山県有朋は、この期間、桂太郎らの将校十数名を中国・
 清国へ駐在武官や語学研究生の名目で派遣した。
  中国・清国の行なっている兵制改革の進展状況などを
 調べるのが本来の目的だった。
  そして、その報告を深刻に受けとめた。
  清国は、非常に進んだ近代的兵制への改革を進めてい
 た。
  その実態を目の当たりにした日本の俊英たちだった。
  その清国の望ましい状況にひきかえ、日本は、最前線
 の第一線の海岸防御の準備さえまったく不十分な状態に
 あるということが思い知らされた。
  1880年11月30日、山県有朋は、天皇陛下へ「隣邦兵備
 略表」を上奏した。
  その内容の概略は・・
  「国家の独立の維持のため、今、兵備を充実せしめた
 い」「万国公法があるといっても、それは強い者に対し
 大義名分を与え、弱い者に対しては同情を買うための口
 実を与えるぐらいのものに過ぎない」・・と・・
  この頃、1871年1881年に、イリ紛争が、清国とロシ
 アの間で起きていた。
  これは、ロシアが、イリ渓谷を占領したことに端を発
 した紛争で、これに対し、中国・清が、ヤクープ・ベク
 の樹立した国家を滅ぼし、ロシアとの間にイリ条約を締
 結し、領土を取りあった紛争だった。
  この様な事が、隣国で、まさに今、起きていた。
  その様な状況において、壱岐対馬隠岐佐渡など
 防御の第一線であるはずのところがまったく無防備で、
 何の役にも立たない危機的な状態となっていると・・。
  中国・清は、李鴻章の下で対朝鮮政策を再編し、強化
 していた。
  日本の隣国である朝鮮への清国の干渉は強まっていた。
  日本への中国・清の圧力が、しんしんと伝わってくる
 状況だった。
  中国・清も、日本に対しての警戒心を強めていて、そ
 のために、朝鮮に対して、従来の冊封体制を逸脱するよ
 うなことまで強いていた。
  米朝修好条約にも、中国・清は口を出し、「朝鮮は清
 の属国だ」と条文への明文化さえさせようとした。
  これは、さすがに、アメリカの反対で条文化はしなか
 った。
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1884年12月、甲申事変(こうしんせいへん)
  中国・清による冊封体制に与(くみ)する朝鮮の閔氏政
 権に不満を持った者たちによって起きたクーデター。
  朝鮮の開化党の要人らが、中国・清の影響を受けてい
 る政権打倒に立ち上がった。
  しかし、打倒され、鎮圧され、中国・清は、朝鮮監視
 を強めるために袁世凱を駐剳(ちゅうさつ)朝鮮総理交渉
 通商事宣として派遣した。
  朝鮮国王のアドバイザーという名目だった・・
  そして、宗属関係を権力的関係に強化し、再編した。
  中国・清は、朝貢させるなどというおっとり収まる状
 態ではなく、積極的に関わり、乗り出して行って朝鮮を
 従えさせた。
  この様な不逞な中国の行動を日本は見ている。
  そして、強国・中国・清と日本は、1885年4月、天津条
 約を結び、日清両国論を公式に認めた形にする。
  日本の隣国・朝鮮の様に、強国・中国・清に好きに従
 属化されないようにした。
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1885年4月15日、イギリスが、朝鮮半島の南にある巨文島(
 きょぶんとう、こむんとう、ポート・ハミルトン)を占領
 した。
  江戸時代末期に、欧米列強の各国が日本に来たが・・
  強烈な武力を誇示されたが・・
  そして、ロシアは、1807年、日本領の択捉島の日本の
 政府施設を攻撃し、南部藩津軽藩の駐屯兵力と交戦さ
 えしたが・・
  この様な様々な列強各国の行動に、日本の政治体は揺
 さぶられていた。
  各地で、日本は理念を掲げて戦ったが、敗け・・そし
 て、何度も、大金を巻き上げられた。
  日本中に若き志を持った志士が生まれ・・活躍した・・
  無血で江戸城が、明け渡され・・新しき政治体制の明
 治となった。
  新しい政治体は、早く欧米列強に追い付こうと理知的
 な日本の指導者たちは努力した。
  国内の不満勢力の闘争も収まった頃(西南戦争・1877
 年など)、
  それから3年ほどが過ぎた1880年参謀本部長の山県
 有朋は、天皇陛下へ「隣邦兵備略表」を上奏した。
  そしてまた、山縣は、再度、「進隣邦兵備略表」を上
 奏し、早急な国の備え、軍備の拡充を訴えた。
  また、同時に、山県は、1879年から1880年にかけて、
 日本の若手の俊英(優れ秀でている人)たちを隣国・中
 国・清へ派遣した。
  その俊英たちが中国を見て、日本へ伝えたことは「近
 代的改革を進め、武力の充実に励む中国の姿だった」。
  日本の施政者たちは、それに比して遅れている日本の
 姿に気付いた・・
  予算措置をし、日本の国防に励んだ・・軍備拡充を急
 いだ。
  時を経て1888年になると・・ロシアの不穏な動きが際
 立って来た・・ロシアの不穏な動きが際立って見えて来
 た。
  1871年1881年のイリ紛争・・この国境問題でロシア
 と中国との間で戦争が起こりそうになったが・・
  この時、ロシアの艦隊は長崎に居た(停泊していた)。
  もしこの時、ロシアと中国との間で戦争が起き、中国
 が敗ける様なことがあったら、べらぼうに強力な軍事力
 を持つロシアは、その勢いで日本への侵略もするという
 恐れもあった。
  対抗する軍事力をまったく持たない日本がそこにあっ
 た。
  朝鮮半島を巡るロシアとイギリスの動きも不穏だった。
  そして、日本よりしっかりした国の備えを持つ中国・
 清は、1884年清仏戦争をしていた。
  これは、大々的に日本国内に報道された。
  この様な様々な成り行きは、最大の日本の関心事だっ
 た。
  日本の周辺は各国の力が様々にうごめいていた。
  中国・清は、武力に訴えてまでして安南(ベトナム)の
 利権を保持しようとした。
  武力に訴えてまでして、それを奪おうとするフランス
 に抵抗していた。
  この様なアジアの周辺の国々の状況だった。
  朝鮮半島においても、ロシアと対抗するイギリスが、
 1885年4月、朝鮮半島の南にある巨文島(ポート・ハミル
 トン)を占領した・・この島は、朝鮮海峡の軍事上の要衝
 だった。
  イギリスは、ロシアとの対抗上この様な行動をした。
  この時、イギリスとロシアとの戦いが、アフガニスタ
 ンで劇烈になっていた・・この中央アジアで一触即発の
 状況になっていた。
  そのためのイギリスの行動だった。
  また、ロシアはロシアで、朝鮮半島北部の日本海側の
 元山(げんざん、うおんさん、ポート・レザノフ)を奪お
 うとしていた。
  アジアの制海権を巡るイギリスとロシアの戦いだった。
  この様な嵐の中で、国の備えも整わない、まだ未熟な
 日本があった・・今・現在も、核ミサイルに囲まれてし
 まっている日本である・・
  中国は、日本の主だった「都市のすべて」に核ミサイ
 ルの照準を合わせているという・・この様な敵対行為を
 している中国・・この様な国の人が国賓で来日するとい
 う・・「桜を見る会」の話はするが、国を守る国防の話
 をまったくしない国会となっている。
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1885年4月15日、巨文島事件
  巨文島(こむんとう、ポート・ハミルトン)は朝鮮の
 南部にある島(韓国・朝鮮の全羅南道済州島の間)で・・
  イギリスが朝鮮の巨文島の占領行為をする時に「中国・
 清に許可をとった」と言ったことに、日本は、大きな衝
 撃を受けた。
  許可をした中国・清もおかしいが・・イギリスもおか
 しい?
  まったく関係ない国の許可で領土が奪われてしまう・・
  キリスト教国は、この様な不埒なことをよくやる。
  例えば、アメリカはフィリピンを奪って植民地にする
 時、スペインに金を渡した。
  フィリピンを買ったと称した。
  こんな嘘論理をキリスト教国は、世界のあちこちでや
 っている。
  「(キリスト教の)神の義があれば、人を殺しても良
 い」という屁理屈論理と同じである。
  こんなことだったら、世の中で、何でもできてしまう。
  ある店の品物を持ち去り、店とまったく関係のない人
 間へ金を渡す様なもの・・そんなの成立する訳はない・・
  その金を渡した相手がその店の主人の知り合いだから
 なんて何でも自分勝手な理屈を付けて、自分の行為を正
 当化している・・こんな行為はあり得ない。
  「朝鮮は一つの独立国なのだ」というのが日本の考え
 方だった。
  「一つの尊重すべき独立した国=朝鮮なのだ」という
 のが日本の見解だった。
  この後、日本は中国・清と戦争をすることになるが、
 その日清戦争に日本は勝って、中国・清に「朝鮮が独立
 国だということを認めさせた」。
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1888年11月16日、山県有朋が、ローレンツ・フォン・シュ
 タインに会いにヨーロッパへ行く・・その命令が出た。
  シュタインは、伊藤博文憲法を講じた人で・・
  この時、山県が会って、コメントを求めたかったのは
 不穏な動きをするロシアのことだった。
  ロシアは、シベリアを取れるだけ取り、さらに、アメ
 リカ大陸へ渡って行き・・
  また、ロシアは、太平洋にぶち当たって南下をし始め・・
  その様な行動をするロシア・・何をする分かわからな
 い・・かつて、江戸時代の末期、日本領の国後島へ攻撃
 した過去のロシアの荒っぽい蛮行があった。
  そして、ロシアは、シベリアに鉄道を敷き、大量の武
 器や兵士を運ぶことの出来る鉄道敷設も進展させていた。
  山県有朋は、この様な行動をするロシアのことなどが
 気がかりだった。
  1890年、首相の地位にあった山県有朋は、1890年12月
 6日、第一回帝国議会の施政方針演説で、下記の様な演説
 をした・・
  「国家の急務とするところは、行政・司法制度を整備
 し、農業・工業・通商を振興して国の実力をつけ、国家
 の独立を維持し、国権の拡張を図ることである。
  列国のあいだにあって、一国の独立を維持するには、
 単に主権線を守護するにとどまらず、進んで利益線を保
 護しなければならない。
  明治二十四年度中、歳出のかなりの部分を占めるのは
 陸海軍の経費であるが、巨大な金額をさいたのはそのた
 めである。・・」。
  この演説の2年前の1888年11月16日、山県有朋は、地方
 制度調査という名目でヨーロッパへの派遣を命じられて
 いた。
  山県の気がかりはロシアのことだった。
  随員を引き連れて、1888年12月2日、横浜港を出立し・・
  翌年の1889年1月11日にマルセイユに着き、パリ、ベル
 リンを歴訪したあと、ローレンツ・フォン・シュタイン
 の待つウィーンに、1889年6月に入った。
  そして、山県は、シュタインに会って日本の軍事につ
 いての「意見書」を渡し、意見を求めた。
  (参考)ローレンツ・フォン・シュタイン:ドイツの
     法学者、財政学者、社会学者。ウィーン大学
     授。
      ヘーゲル哲学から出発してドイツ的社会科学
     の体系を確立。
      法を社会発展の所産と説き、法社会学の先駆
     をなし、行政学を階級対立を緩和する政策の原
     理とし、財政学では租税再生産力説で知られる。
      フランス社会運動史に関する著書もある。
      保守的な社会改良主義者で、1882年、渡欧中
     の伊藤博文憲法を講じ、大きな影響を与えた。
  シュタインは、山県有朋の分析に対し「実に明晰」「
 正確」と評価を与えた・・が・・批判的なコメントもし
 た・・それが以下・・
  (1)シベリア鉄道は、ウラジオストックまで全通する
   ことがあったとしても、山県が恐れるほどには、日
   本の脅威にならない。
    その理由は、東アジアに到達する部分でシベリア
   鉄道は、中国の領土を通過しなければならないから
   で、これは、ロシアにとって一つの制約要因となる。
    また、日本に侵攻するロシア軍を仮に3万人とすれ
   ば、その兵員を客車で運ぶと900輌を要する。
    シベリア鉄道は、荒漠たる土地に一線路を敷いた
   ものに過ぎないので、全路線を保全しつつ3万の兵員
   をアジアまで移動させることは難しいだろう。
    そして、ユーラシア大陸の東に出れば、日本海
   渡るために多くの輸送船を必要とする。
    しかも港は結氷する。
    シベリア鉄道によって、ロシアが日本を蹂躙する
   ことはほとんど無理である。
  (2)むしろシベリア鉄道は、「朝鮮の占領に関して必
   要あるを知るべし」。
    ロシアはこれによって、東亜に海軍を起こすこと
   ができる。
    この様な意味で、シベリア鉄道の着工は日本にと
   って大問題となるのである。
  (3)イギリスの東アジアへの干渉の度合いが、カナダ
   鉄道の北米大陸横断によって高まったと山県はみて
   いるが、それは違う。
    イギリスが、カナダ陸軍を使おうとすれば、カナ
   ダ国会の議決が必要となり、そうそう簡単にはいか
   ない。
  北太平洋の危機について山県が、シベリア鉄道の着工
 (1891年)や、カナダ鉄道の北米大陸横断によって格段
 に高まったとの判断を下していたのに対して、シュタイ
 ンは、シベリア鉄道竣工が日本にとって死活的に重大に
 なるのは、ロシアが朝鮮の占領を考慮した時だけである
 と論点を整理してコメントした。
.
1889年6月、山県有朋はウィーンに入り、シュタインに会
 った・・そして、色々な意見を求め、指導を受けた。
  ロシアは、16世紀後半になって、シベリアを自国の領
 土として侵略して行った・・
  そして、そこに、必死に鉄道を敷設して行く・・
  ウラジオストクまで全通した時、ロシアはジレンマに
 直面した。
  ウラジオストクまで行って太平洋に、直接、出て行か
 れる様になったが、この港は冬季に結氷した。
  鉄道を敷いて大軍団の軍事力を効率的に運ぶことがで
 きる様にはなったが、この様な冬季凍結の港では完全に
 活かすことはできない。
  ここで地図を見ればすぐに分かるが、結氷しない良港
 が朝鮮半島に存在した。
  ロシアは結氷しない良港を求めて行く・・
  この行動から数々の問題が発生して行く・・
  ロシアは凍結しない港、極東艦隊の根拠地を求めた。
  日本は、早い時期から、この様なロシアが、日本海
 面した元山沖の湾を占領するだろうと予測した。
  山県有朋やシュタインの予想した東アジアの危機的状
 況から導き出された。
  シュタインは、朝鮮が「ロシアや中国に支配される」
 のではなく「中立が保たれるのが重要」と示した。
  この朝鮮中立を、日本は何よりも、軍事力を使ってで
 も進めるべきだという意見をシュタインは述べた。
  日本の安全保障のために「朝鮮の中立を武力を使って
 でも担保せよ」との指針を示した。
     ・
     ・
1934年9月4日、アメリカのナイ委員会が公聴会を始めた。
  アメリカの「ナイ委員長の委員会」は、アメリカが第
 一次世界大戦に参戦したのは「大銀行家」と「軍需資本
 家(軍需工業家・兵器製造業者)」のために参戦したのだ
 と考えていた。
  ナイ委員会は、この調査を進めた。
  調査主任はスチーブン・ラウセンブッシュだった。
  ナイ委員会は、1934年9月4日、公聴会を始めた。
  この問題は今・現在も「限りなく真実に近い問題とし
 てアメリカに存在すると世界は見ている」。
  (参考)ナイ委員会:1934年に、アメリ連邦議会
     上院に設立された軍需産業調査特別委員会。
      委員長:G.ナイ (1892年~1971年) 上院議員
     の名にちなみ、こう呼ばれた。
      同委員会は第1次世界大戦中、軍需産業資本家
     たちが「死の商人」としていかに莫大な利潤を
     獲得したかを次々と明らかにし、軍需産業の国
     有化や特別課税を勧告したが、立法化には成功
     しなかった。
      しかし、1934年のビンソン=トランメル法に
     影響を与えて、国防上の契約から莫大な利益を
     あげることを防ごうとする動きを強め、また、
     中立法制定の機運を促した。
.
1937年10月5日、隔離演説(日本批難演説)・・
  アメリカ国内でも批判が出る様な卑劣な日本への蔑(
 さげず)み演説がされた。
  フランクリン・ルーズベルト大統領が、この日、日本
 を批難する隔離演説をシカゴで行った。
  程度の低いこの演説に様々な批判が出るくらいだった。
  著名な漫画家で、4コマ漫画「スキッピー」の作者のパ
 ーシー・クロスビーは、ルーズべルトを痛烈に批判した。
  彼は、ニューヨーク・サンの広告枠を2ページ分購入し、
 演説を攻撃した。
  また、ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、所有す
 る数々の新聞社で酷評し・・
  シカゴ・トリビューンのロバート・R・マコーミックも
 酷評した。
  さすがに、この演説に対するアメリカ国民の方々の反
 発は強かった。
  ルーズベルトは程度の悪い大統領だった。
.
1937年12月12日、バネ―号事件
  中国の南京付近で、揚子江上のアメリカ砲艦パネー号
 (パナイ号)を日本海軍機が爆撃し沈没させた事件。
  これが意図的なものなのか誤りによるものなのかにつ
 いては、事件当日以来、日本とアメリカとの間で主張が
 わかれた。
  日本は事件が誤りによって起きたとして、ただちにア
 メリカに対して陳謝した。
  この日本政府の陳謝は、アメリカ政府に受け入れられ、
 事態はおおむね収束した・・が・・
  アメリカで大々的に報道され、厳しい対日世論を引き
 起こした。
  背景として・・1937年8月13日に、第二次上海事変が起
 きていた。
  第二次上海事件は、今は新史料も出て来て、アメリ
 が大々的に中国・国民党を支援して、上海の日本租界を
 攻撃させたことが分かっている。
  第二次上海事変勃発から約4ヶ月後のこの時も、日本軍
 は中国国民党政府の首都・南京へ向けて追撃戦をおこな
 っていた。
  海軍航空部隊もこれを支援して、撤退する中国軍部隊
 へ追撃し、中国軍部隊を乗せたジャンクの爆撃、輸送機
 関、輸送施設の爆撃などさまざまな作戦を展開していた。
  便衣兵(べんいへい、中国軍は民間人の平服を着て、
 卑怯な偽装していた。これでは民間人に犠牲が出てしま
 う)の存在があるため、日本軍は中国人の取調べなどを
 行っていた。
  その日本陸軍の部隊も、飛来した日本海軍機の爆撃や
 機銃掃射に巻き込まれ、日本兵にも死者2名、負傷者3名
 が出るくらいに戦いの状況は乱れていた。
  そこに、卑劣にも隠密裏に行動するアメリカ軍も絡ん
 でいた・・
  また、中国軍は、外国旗を掲揚して外国船を偽装した
 中国船に乗船したり、あるいは外国船を借用したり、さ
 らには中国軍に味方した外国船に護送されて南京からの
 脱出を図っていた(アメリカは、戦いの中心人物の蒋介
 石や司令部を救出という名目で連れ去っていた。これで
 は戦いが、さらにシッチャカメッチャカになる訳である)。
  陸軍の作戦に協力すべき任務を課せられていた海軍航
 空部隊指揮官は、12月11日以来、「南京方面の中国兵が
 船舶により上流方面に逃走しつつあり」、また、「此等
 船舶は屡々南京とその上流との間を往復しつつあり」等
 の情報を受領していた。
  1937年12月12日午前、中支那方面軍司令部に連絡参謀
 として派遣されていた青木武海軍少佐から「南京上流約
 10海里の揚子江上に中国の敗残兵を満載した商船約10隻
 が上流に向かって逃走中である。
  陸軍にはこの敵を攻撃する手段がないので、ぜひとも
 海軍航空部隊で攻撃してもらいたい」との(陸軍からの
 攻撃協力要請の)主旨の電話連絡を受けていた。
  この様な時、アメリカのバネ―号は中国軍に協力して
 いた・・
  中国空軍基地に運ぶガソリンを満載したタンカー3隻を
 護送していた。
  この様に中国軍とともに行動していたバネ―号を攻撃
 するのは誤りでも何でもなかった。
  れっきと参戦しているアメリカだった・・
  攻撃を受けたバネ―号には逃走する中国人を含む外国
 人(アメリカ人将校5人、兵士54人、アメリカ大使館員5
 人、民間人10人)を乗せていた。
  日本軍機の攻撃によって、死者が3人、重傷者48人が出
 た。
  同道していたアメリカの企業の船も危害を受けた。
  この様なバネ―号事件を、日本に対して何かと厳しく
 対応するルーズベルト大統領の外交部門を担当するコー
 デル・ハルは、「公正に日本を見ていなかった」。
  そして、コーデル・ハルの著書「ハル回顧録」で以下
 の様に表現した。
  「日本はだんだん不敵になり日本の飛行機がバネー号
 を撃沈した」・・と・・
  コーデル・ハルは、この著書でも分かるが、日本を戦
 争に駆り立てる言動をよくする。
  コーデル・ハルは、「ハル・ノート」を日本に突き付
 ける行動をした。
  これは、日本に最期通喋となって日本に戦争を決断さ
 せている。
  コーデル・ハルは、日米戦争を起こさせた者と言える。
  ルーズベルト大統領は、アメリカの自国の国内問題で
 忙しかった。
  実際に大統領の片腕となって外交を指揮したのはコー
 デル・ハルだった。
  このコーデル・ハルは、日本に対して良い印象を持っ
 ていない・・蔑視観さえ持っていた。
  アメリカ国内では、長い間、種々の日本への差別的プ
 ロパガンダ行為がなされており、日本との戦争はその行
 き着く先の道という行動がなされていた。
  逆に、日本には親米感情さえあったが、長い間、アメ
 リカで行われる日本への差別的排除行動、蔑(さげす)み
 行為、プロパガンダ行為がだんだん双方に、当然、日本
 にも不快感を醸成させ、戦争が醸し出されて行った。
  アメリカ国内で執拗に、陰湿に、長い期間、行なわれ
 たこのプロパガンダ行為が最も罪ある行為だった。
  その底には「有色人種への蔑視観を植え付け洗脳した
 キリスト教の教義とマインド・コントロールがあった」。
  これが日米の戦いへの道の基底にあった。
  当時、 唯一、日本だけが、白人キリスト教社会に抵抗
 できる状態だった。
  キリスト教の宗教の根には「異端への警戒感」があっ
 た。
  カナンの地を目指し、生き残ろうとした民族は、目的
 地へたどり着くと、蜜と乳の流れる豊穣のわずかな地に
 は、その砂漠の中の豊かな地には、数多くの民族が、や
 はり生き残ろうと群れていた。
  「我が民族さえ生き残って欲しい」と祈った。
  キリスト教は、この様な祈りから生まれた。
  他者排除の心が心底にある宗教・・
  「異教徒は殺せ」の教義を持つ宗教・・
  特に肌の色、有色の民への蔑視観とともに排除しよう
 と・・
  アメリカに、当然のごとくにして「排日移民法」がで
 きた・・卑劣な法律だった・・これも日米戦争の遠因と
 なった。
  アメリカではKKKなどの有色人種殺戮集団が今でも
 暗躍している。
.
1937年12月13日、中国の南京が陥落した。
  陥落の4日前の12月9日に、日本軍は飛行機で南京城
 にビラを撒いて、中国軍に対し、犠牲が多くなる無駄な
 抵抗をしない様にと「降伏の勧告をした」。
  以下はその内容・・
  『日本軍は江南を席巻した・・南京城はすでに包囲さ
 れた。
  今後の交戦は百害あって一利なし。
  江寧の地は旧都にして中華民国の首都である。
  明の孝陵、中山陵など古跡名所が多くあり東亜文化の
 精髄の感がある。
  日本軍は抵抗する者に対しては寛恕しないが、無辜の
 民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってこ
 れを冒さない。
  文化財は保護する熱意がある。
  しかし、交戦を継続すれば、南京は戦禍を免れず、千
 載の文化は灰に帰す。
  貴軍に勧告する。
  南京城を平和裡に開放せよ。
  回答は10日正午中山路句容道上の歩哨線で受領する。
  もし貴軍が責任者を派遣するときは、必要の協定をむ
 すぶ。
  回答がない場合は、日本軍はやむをえず南京城攻略を
 開始する。
  投降勧告(原文中国語、現代日本語による抄訳)、大
 日本陸軍総司令官  松井石根
  (参考)寛恕:かんじょ、度量が広く、思いやりの深
     いこと。あやまちなどをとがめずに、広い心で
     許すこと。
  (参考)無辜:むこ、何の罪もないこと。
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1941年1月、日米戦争を回避しようとする努力が始められ、
 「日本提案」という覚書が提出された。
  「ハル回顧録」には以下の様なことが記されている・・
  1923年、フランスがルールに侵入したのは予防手段を
 取ろうとしたものであったが、これは英国の激しい反対
 を招き、ポアンカレ―内閣はこのために潰れてしまった。
  その後、フランス政府は予防戦争に乗り出す勇気を失
 ってしまった。
  以下、同著を参考に記すと・・
  1935年、コーデル・ハルは、スズの貯蔵計画をたては
 じめた。
  これは、米国内では沢山生産されない戦略物資で、戦
 時には陸海軍にとって必要欠くべからざるものであった。
  そして、ゴムを加えて戦略物資の貯蔵を始めた。
  1937年10月5日、ルーズベルト大統領はシカゴで「隔離
 演説」をした。
  アメリカは、日本の通信を完全に傍受し中味を知って
 いた。
  (参考)アメリカは、卑劣にも日本の郵便物を開封
     ることまでして日本の行動を傍受し知っていた。
      この様に何から何まで知っていたアメリカが
     この点だけからでも「真珠湾攻撃が奇襲だ」「
     アメリカは何も知らなかった」などと言えるは
     ずはない。
  そして、ハルの著書には、「我々が傍受していた東京
 からの通信が危機が迫っていることを明白に物語ってい
 た」と「ハル回顧録」に書かれるぐらいだった。
  ハル・ノートが日本に渡された日は、1941年11月26日・・
 「ハル回顧録」には提案(十ヶ条の平和的解決案」と記
 されている。
  正式には、「合衆国及日本国間協定の基礎概略」と称
 する。
  冒頭に「厳秘、一時的且拘束力なし」という但し書き
 が書かれていてアメリカの正式な提案ではなく、ハルの
 「覚書」だという。
  重要資源のほとんどをアメリカに依存していた日本が
 アメリカと戦争する理由は『まったくある訳はなかった』。
  民間の接触から始まった日米戦争の回避への接触は、
 1941年1月、「日本提案」という覚書が提出された。
  日米が接触していることは、ルーズベルト大統領、ハ
 ル国務長官へも報告されていた。
  ハルは、著書に、40回から50回、日本側と接触し会談
 したと記している。
  「もし日本が三国同盟から脱退すれば、アメリカは日
 ソ戦が起きた場合、日本を援助する」という提案もあっ
 たという。
  また、日本から、アメリカも北京議定書に基づいて中
 国にアメリカ軍が駐留しているが、日本だけの駐留だけ
 を問題にして言うのはおかしい・・というやり取りもあ
 り、アメリカは「なるべく早く撤退するつもりだ」とも
 言ったという。
  また、日本が、アメリカの「パナマ駐留」を指摘する
 と「あれは租借地パナマ領ではない」と言い逃れを言
 ったという。
  「租借地を作っても良いのか」とも言うと、「それは
 困る」との返事がアメリカからあったという。
  満州国の承認について、アメリカ側から異議は出なか
 ったという。
  これらをまとめて、1941年4月9日に草案を受け取った
 ハル国務長官は、3日間に渡り国務省内で検討したが、
 「日本側ばかりが望むものばかり」と評した。
  しかし、ハルは、「一部は全然承諾は出来ない点もあ
 るけれども、そのまま受け入れる事のできる点、また、
 修正も加えて同意できる点もある」という結論を出した。
  そして、1941年4月16日に「日米諒解案」として決着し
 た。
  日本には、「アメリカの蒋介石援助」を停止したいと
 ころがあった。
  アメリカの介入なしに日中で問題を解決したい点があ
 った。
  アメリカは、この点は関わりたい態度だった。
  また、ルーズベルト大統領は、日本が三国同盟を結ん
 でいることに強い懸念を示していた。
  1941年4月16日、ハルは、野村大使と会談し、次の四原
 則を示した。
  (1)すべての国の領土と主権尊重
  (2)他国への内政不干渉を原則とすること
  (3)通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること
  (4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋
    の現状維持
  しかし、野村大使は、この四原則を添付せずに日米諒
 解案を日本政府に送った。
  野村の言い訳は「日米の話し合いが進まなくなること
 を恐れて、これを押さえた」と説明した。
  日米諒解案・・
  1、日米両国は、相互に隣接する太平洋地域の強国であ
   ることを承認し、共同の努力により太平洋の平和を
   樹立し、友好的諒解を速やかに達成する。
  2、欧州戦争に対する態度として、日本は三国同盟の目
   的が、欧州戦争拡大を防止することにあり、その軍
   事上の義務は、ドイツが、現にこの戦争に参加して
   いない国によって、積極的に攻撃された場合のみ発
   動することを声明する。
   一方米国の欧州戦争に対する態度は、もっぱら自国
   の福祉と安全とを防衛するという見地によってのみ
   決することを声明する。
  3、日中戦争について、米国大統領が次の条件を容認し、
   日本政府がこれを保証したときは、大統領は蒋介石
   政権に和平を勧告する。
   A.中国の独立。
   B.日中間の協定による日本軍の中国撤兵。
   C.中国領土非併合。
   D.非賠償。
   E.中国の門戸開放方針の復活。
   F.蒋介石政権と汪兆銘政権の合流。
   G.中国への日本の集団的移民の自制。
   H.満州国の承認。
  4、太平洋平和維持のため、相互に他を脅威する海空力
   の配備をせず、日本は米国の希望に応じ、自国船舶
   を太平洋に就役させる。
   会談妥結後、両国は儀礼的に艦隊を派遣し合い、太
   平洋の平和到来を祝す。
  5、両国間通商の確保、日米通商航海条約の復活。
   米国よりの金クレジットの供与。
  6、日本の南西太平洋における発展は武力に訴えず、平
   和的手段によってのみ行われるという保障のもとに、
   米国は日本の石油・ゴム・錫・ニッケルなど重要資
   源の獲得に協力する。
  7、太平洋の政治的安定に関し両国は、
   A.太平洋地域に対する欧州諸国の進出を容認しない。
   B.両国はフィリピンの独立を保障。
   C.日本人移民は他国民と同等無差別の待遇を得る。
  以上の点について両国が合意すれば、ハワイにおいて
 ルーズベルト・近衛会談を行う。
  日米の和平への決着の道が示されたのだった。
  ただ、日本企業が中国に進出し、小売りの商人も居た、
 また、日本人が、多数、中国で経済活動をし、生活し、
 密着していた・・この保護のための日本軍駐留が出来な
 くなるという事が大きな問題点として存在した。
  この案で決着の道へ進みそうであったが、帰国した松
 岡外相は「その様な肯定的な受け取り方ではなかった」。
  そして、松岡独自の三原則が提議された。
  ・支那事変への貢献(アメリカが蒋介石に圧力をかけ
   て日中戦争解決に貢献する)
  ・三国同盟に抵触しないこと(ドイツへの信義)
  ・国際信義を破らない(アメリカの中国からの撤退)
  これが、ボタンの掛け違いの始まりだった。
  アメリカの狙いは、三国同盟の骨抜き、欧州戦争にお
 けるイギリス援助、日本の中国からの撤兵・・だった。
.
1941年3月3日、戦争回避のための日米交渉が始まった。
.
1941年12月8日、日本が真珠湾を攻撃したという報告を受け
 たイギリス首相のチャーチル歓喜した・・「これで勝
 てた」と思った・・確実にアメリカ世論が転換して、ア
 メリカがヨーロッパ戦線に参戦するからだった。
  洋上でルーズベルト大統領と会談したとおりに事が運
 んだのだった。
  チャーチルは、この日、「感激と興奮とに満たされ、
 満足して私は床につき、救われた気持で感謝しながら眠
 りについた」チャーチル著「第二次世界大戦回顧録
  ヒトラーという男が、ドイツで国民の方々を繰って国
 の実権を握ってしまう。
  この様な行動が許されてしまう素地は、資源が欲しい
 として始まった戦いにドイツは敗れ、その戦いの弁済を、
 戦勝国の立場の横暴さで、あまりにも過酷な弁済をドイ
 ツに科したところにあった。
  その様な素地から生まれたヒトラーの行なう事は、そ
 の反動で、あまりにも卑劣だった。
  苦しんだドイツ国民もそれを許した。
  イタリアも同じような不満からイタリアの実権を握っ
 たムッソリーニヒトラーと同調した。
  この様にしてできた勢力との戦争が悲惨な戦いになっ
 た頃、アメリカの助力が求められた。
  しかし、アメリカ国民の方々は、あまりにも悲惨だっ
 た先の戦争(第一次世界大戦)の記憶から参戦には大反
 対だった。
  この時のアメリカ統領・ルーズベルトでさえ「戦争は
 しませんを公約していた」。
  しかし、ヨーロッパの戦いはあまりにも悲惨だった。
  その行く先はアメリカの望む方向ではなかった。
  ここで「戦争に加わるか?」「戦争に加わざるべきか?」
 の問題がアメリカに生まれた。
  戦争に加わるべきとなった時、引っ張り出されたのが
 日本だった。
  日本は、当然の様に最初からアメリカと戦うという気
 さえ「まったく無かった」。
  重要な輸入品の多くをアメリカに依存していた。
  アメリカ国民の「戦争はしたくない」「戦争はしませ
 ん」という世論の変更と、アメリカと戦う気のまったく
 無い日本を操作して日本に戦う気を起こさせるのが、ア
 メリカ大統領と外交の責任を負ったコーデル・ハル国務
 長官だった。
  コーデル・ハル国務長官は色々な手を打ち、日本に戦
 争の決断をさせる最期通喋の「ハル・ノート」を日本に
 突き付けた・・日米の戦い・ハワイの開始によって・・
 アメリカの世論は180度転換し、アメリカはヨーロッパ戦
 線へ参戦できる様になり、ヨーロッパ戦線へ参戦して行
 く。
  イギリスのチャーチル首相との約束通りに、その約束
 を果たせたアメリカのルーズベルト大統領だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/