(増補版)682E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年12月~1897年12月)

題:(増補版)682E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1897年12月~1897年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・正しいことを教えてあげねばならない。
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
 ☆中国の九段線否定の国連決議をするべきだ。
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1897年12月18日、鉄道作業局長官に松本荘一郎が就任した。
  松本荘一郎(1848年~1903年)は、日本で最初の工学
 博士と言われている。
  東海道線信越線を作るなど、各地の鉄道工事の中心
 的な役割を果たし、日本の鉄道の発展に尽くした人。
  1848年6月23日、播磨国神東郡粟賀村(現:兵庫県神崎
   郡神河町)に生まれた。
  1868年(20歳)箕作麟祥を師事し、塾に入り、三秀才
   と称された。
   大垣藩(岐阜県)藩士への推薦を受けて、同藩に出仕
   する・・のち、大学南校に入る。
  (参考)箕作麟祥:みつくりりんしょう、洋学者、法
     学者。
      生れた年に父・省吾が他界、祖父・箕作阮甫
     に養育され、洋学を祖父について習得。
      1863年、祖父の死にあい嫡孫として跡を継ぎ、
     幕臣に列せられた。
      1867年、徳川民部大輔に随行してフランスに
     渡り、フランス語を修得、
      1868年の翌年、帰朝。
      後、明治政府の一等訳官に任じられた。
      以後、元老院議官、司法次官、
      1889年、貴族院議員、法典調査会主査などを
     経て・・
      1891年、行政裁判所長官。
      その業績としては、フランス諸法典の翻訳、
     旧民法、商法の編纂事業などがあげられる。
      主著:『仏蘭西法律書
  (参考)大学南校:文部省(文部科学省)の前身であ
     るとともに東京大学の源流諸機関の一つとされ、
     特に「大学南校」は東大法・理・文3学部の、
     「大学東校」は同医学部の前身となっているが、
     両校を完全に統合して単一の「大学」とする構
     想は、1877年の(旧)東京大学発足によっても
     果たされず、1881年の東大の組織改革によって
     ようやく実現したとみられている。
  1870年(22歳)アメリカ留学を命じられ、7年間、土木
   工学を学ぶ。
  1876年(28歳)帰国して、東京府御用掛として土木事
   務を担当し、東京大学工学科教授も務める。
  1879年(31歳)開拓使御用掛となり、炭鉱開掘、鉄道
   敷設、道路改正、市街整頓、石狩川河口改良などの
   事業を手掛け、開拓使廃止後も工部権大技長、農務
   権大技長として引き続き北海道の開拓を進めた。
  1884年(36歳)東京に戻って、全国の鉄道敷設計画を
   担当し、工部大技長・鉄道一等技師、鉄道庁部長、
   逓信省鉄道技監
  1888年(40歳)工学博士となる。
  1893年(45歳)鉄道庁長官、逓信省鉄道局長。
  1897年(49歳)鉄道作業局長官。
  1898年(50歳)帝国鉄道協会を設立した。
  1903年3月19日、死去、56歳
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1897年12月20日総武鉄道会社が、本所駅~横網駅間の建
 設出願をした。
  1898年12月1日、本所駅~秋葉原駅間延長の仮免状下付、
  1900年6月28日、免許状下付
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1897年12月21日、帝国議会の第11議会が召集された。
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1897年12月24日、手小荷物其他運送賃金規程を改正した。
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1897年12月25日、衆議院が、内閣不信任案上程を受けた松
 方内閣によって解散となった。
  総理大臣:第6代、第二次松方正義内閣
  在職期間:1896年9月18日~1898年1月12日
  在職日数:482日
  旧薩摩藩出身者が大臣の半数を占めた。
  内閣発足の時、三菱財閥岩崎弥之助は、松方に大隈
 重信との連携を提案し、第一次松方内閣の失敗をくり返
 さない様にと提案した。
  しかし、松方の出身の薩摩閥からも反対論が出た・・
  大隈の外務大臣は実現しなかったが、大隈の進歩党か
 ら各重職に進歩党からの起用がなされ、この内閣を松隈
 内閣(しょうわいないかく)と言われた・・
  本格的に、政党の政権参加が実現した・・
 松方内閣第一議会解散(氷川清話)(12月25日)
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1897年12月25日、赤痢菌の発見・・世界に大きく寄与する。
  志賀潔(しがきよし、1871年2月7日~1957年1月25日、
 北里柴三郎の弟子)が、伝染病研究所で苦心して赤痢
 を発見した・・26歳の時だった。
  発見して、「細菌学雑誌」に『赤痢病原研究報告第一』
 を日本語で発表した。
  また、赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治
 時代の日本の近代化の中で世界に通用する科学研究の成
 果を成し遂げた偉大な先駆者と評されている。
  1898年(27歳)要約論文をドイツ語で発表する。
   これにより、赤痢菌の属名は志賀潔に因んでShigella
   とされた。
  1899年(28歳)内務省技師・伝染病研究所第一部長と
   なる。
  発見の前年の1896年には、赤痢が大流行をしていて、
 全国の死者数が22,356人となっていた。
  また、志賀潔は、1896年に大学を卒業して大日本私立
 衛生会伝染病研究所に入所、北里柴三郎に師事した・・
  その翌年の1897年に、赤痢菌発見の大功績をあげられ
 た。
  日本の医学者・細菌学者、朝鮮総督府医院長、京城
 学専門学校校長、京城帝国大学総長などを歴任された。
  1926年(55歳)新たに創立された京城帝国大学(現在
   のソウル大学校)の医学部長に就任し、さらに
  1929年(58歳)京城帝国大学総長となって韓国・朝鮮の
   医学の進歩に貢献された。
   日本は、国内と分け隔てなく朝鮮・韓国の国づくり
   に誠実に取り組んでいた・・日本のなけなしの大偉
   人を韓国・朝鮮へ派遣して改革を推進した・・そし
   て、医学を根付かせた。
   NHKが、日韓併合という形で(植民地ではない)
   この一つの事例でも分かる様に誠実に韓国・朝鮮の
   改革に取り組んでいるのに、植民地支配でもないの
   に、NHK高校講座で「植民地支配」「植民地支配」
   と洗脳的に、何度も連呼するように放送していたが、
   NHKのこの様な学校放送は、まったくおかしい・・
   NHKから学校放送をする権利を取り消した方が良い・・
  尚、志賀潔の晩年は、私生活では清貧を貫き、数々の
 名誉を得ながらも、晩年は質素な暮らしに徹しておられ
 た。
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1897年12月27日、阪鶴鉄道池田駅(現:川西池田)~宝塚
 駅間が開通した。
  阪鶴鉄道(はんかくてつどう)は、1896年に設立され
 た会社で、大阪から福知山を経て、舞鶴を結んでいた鉄
 道路線。
  尼ヶ崎駅(のちの尼崎港)~池田駅間で営業していた
 摂津鉄道に出資していた小西業茂(小西新右衛門)らが、
 大阪財界人と結んで、軍港を擁し日本海側の主要都市の
 一つであった舞鶴と、大阪を結ぶ鉄道を計画したのが始
 まりだった・・そして、1893年に免許を出願申請した。
  舞鶴への鉄道敷設を競っていた京都鉄道に、京都駅~
 綾部駅舞鶴駅間の仮免許が下りたため、阪鶴鉄道には、
 福知山駅舞鶴駅間の免許が下りなかった・・など、競
 争が激しく行われた。
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1897年12月27日、宮原二郎が、宮原式水管ボイラーの特許
 を取得した・・これも大発明だった。
  1904年、この「宮原式水管汽罐」(特許第3014号)の
 発明の功績によって、宮原二郎(1858年~1918年)に勲
 二等旭日重光章が下賜された。
  海軍技術将校だった宮原二郎は、英国に16年間、学ん
 だ。
  その技術と経験を活かしての発明に至った。
  この発明は、木炭を燃料とした蒸気船で、当時の軍艦
 や商船に採用された。
  宮原の汽罐は、価格が当時の世界標準の半分だった。
  また、給水と掃除が容易で、耐久性に富み、さらに燃
 費がよかった・・
  そして、小型でありながら高馬力であった。
  宮原式水管汽罐で高速化した日本海軍が実現でき、こ
 のボイラーは、陰の功績・功労者だった・・
  日露戦争の勝利もこのボイラーの性能が良かったから・・
 この性能は世界からも注目された。
  海軍は、フランス系、イギリス系、並びに、国産宮原
 式といった水管ボイラを数多く使用して来ていた。
  大形艦向けのボイラ、即ち、ベルヴィールやニクロー
 スの直接的代替物として宮原式が隆盛を迎えた。
  建艦実績:
  筑波(23260馬力)、生駒(22670馬力)、
  薩摩(18425馬力)、鞍馬(23081馬力)、
  利根(15402馬力)、安芸(28740馬力)、
  淀 (7030馬力)、 伊吹(27111馬力)、
  最上(7959馬力)、河内・摂津(30399馬力)、
  金剛(36275馬力)、扶桑(40000馬力)・・など
  「絶ヘス焚火スルコトニシテ圓罐ニテハ五分毎ニ一度
 給炭スヘキトキ水管罐ニテハ一分半乃至二分毎ニナスヲ
 適當ナリトス」・・ここに一つの特徴があった。
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1897年12月28日、松方正義内閣が総辞職した。
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1897年12月28日、阪鶴鉄道の神崎駅~池田駅間の改築工事
 が竣工した。
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1897年12月29日、成田鉄道の成田駅滑川駅(現:滑河)間
 が開通した。
  成田線は、総武本線佐倉駅から北へ分岐して、成田
 駅を経て、利根川南岸に沿って、再び、総武本線との合
 流駅である松岸駅へ至る路線である。
  当初、千葉県は、東京との交通手段において鉄道と利
 根川水運が競合することによる共倒れを恐れていた。
  そのため、利根運河ができた以上は同地域には鉄道は
 不要だとの見解を取っていた。
  そのため、総武鉄道が開通したのが1894年と遅くなっ
 た。
  1894年7月25日になって、やっと、下総鉄道に仮免状の
 下付(佐倉駅佐原駅間)となった。
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1897年12月、鉄道小包郵便締切便取扱手続を制定した。
  鉄道郵便局があって、鉄道郵便を取り扱うため、郵政
 省には、もう一つの郵便局の一種があった。
  引受した郵便物を列車に連結した郵便車で運送し、一
 般の郵便システムで行う郵便と区分していた。
  鉄道事業者に郵便車を運行させて、これに職員が乗務
 し、鉄道沿線の郵便局から継送される郵便物を輸送する
 とともに、郵便車内で郵便物をあて先地域別に区分する
 業務を行っていた。
  明治期の日本政府は、鉄道は近代的な交通・通信イン
 フラの基盤として重要と位置付けていた。
  1872年に開通した日本最初の鉄道においても、郵便輸
 送が行われていた。
  また、当初は、郵便物を単に輸送するのみであったが、
 郵便物数の増加に伴って、送達速度の向上のために、1892
 年4月から、輸送中の鉄道郵便車内での郵便物のあて先地
 域別区分を開始した。
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1897年12月、無線通信実験が行われた・・成功する。
  築地海岸に送信器設置し、船との無線通信を行ない成
 功した。
  逓信省電気試験所の松代松之助電信主任らが、築地海
 岸に送信機を設置し、受信機を小船に乗せて1.8kmの無線
 通信に成功した。
  「月島海岸と第五台場のおよそ1海里(=1.8km)の通信
 に成功した」とも言われている。
  世界的な無線通信試験が、1895年のマルコーニによる
 試験と言われているので、日本は早い時期に無線通信試
 験を行っていたと言える。
  ただ、1897年12月ではなく、1年遅い、1898年12月だと
 する説もある。
  1895年のマルコーニの無線実験の翌年の1896年、浅野
 電気試験所長から松代氏が調査を命じられている。
  また、1897年、逓信省でも無線通信の研究が始まって
 いる。
  「明治二十九年(1896年)十月、当時の逓信省管船局
 長・石橋絢彦が、電気試験所長・浅野応輔を訪ねて近著
 の外国雑誌にマルコニが無線電信というものを発明した
 という記事があることを知らせたので、浅野所長は、早
 速、その調査研究を所員松代松之助に命じた。
  松代所員は、その記事の掲載されてあるロンドン・エ
 レクトリシアンによって一応取調べ、なお、その原理と
 してはヘルツ波という書物で、マックスウェルの理論を
 実験によってよく説明してあったものを唯一の参考書と
 して試験研究を始めたのが翌三十年(1897年)七月であ
 った」 (電波監理委員会編、日本無線史第三巻)
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1897年、動力自動織機を発明(日本)
  豊田佐吉(1867・3・19~1903・10・30)が、我が国初
 の木製の動力自動織機を発明した。
  この発明は大発明と言える発明で、世界の人を豊かに
 する偉大さがあったた。
  日本人が、世界の人々に貢献した数々の大発明の一つ。
  佐吉は、「能率の悪い手機を改良することができれば、
 きっと人々の役に立てる」と考えていた。
  「作っては壊すこと」を繰り返した・・佐吉は発明に
 没頭した。
  1890年(23歳)秋、佐吉の最初の発明となる「豊田(と
   よだ)式木製人力織機」を完成した・・
  1891年(24歳)の翌年に特許も取った(これが大切)・・
   それから「織りムラの解消」と「能率の向上」に努
   めた・・
   そして、人力より動力織機の発明へ向かった・・
   研究資金の確保にも努力した・・織機の改善は自分
   が使う事によって確かめた・・
  1892年(25歳)自分の発明した織機の数台で織布工場
   を開業した。
   織った布は問屋に好評だったが、経営と発明研究で、
   経営が苦しくなった・・
   やむなく工場は閉鎖された・・郷里に帰る・・伯父
   の家へ・・
   伯父の家に住み込みながら、動力織機の研究をした・・
  1894年(27歳)画期的な豊田式糸繰返(とよだいとく
   りかえし)機を完成した・・
   これを販売・・そのための店を開店・・軌道に乗る・・
   さらなる発明へ一心不乱に取り組む・・
  1896年(29歳)最初の動力織機の豊田式汽力織機(豊
   田式木鉄混製動力織機)を完成した・・
   安価な、生産性も良く、品質も向上した・・
   評判よし・・
   蒸気機関だけでなく、石油発動機も用いた・・
   後の三井物産が、この動力織機に注目し織機製作会
   社の設立を提案した・・
  1899年(32歳)合名会社が設立された・・
   佐吉は、技師長となり発明に専念した・・
   そして、佐吉個人の豊田商会を作った・・
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1897年、黄熱病を発見する野口英世が、国家試験に合格し、
 医師になった。
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1897年、ディングレー関税法
  アメリカは保護貿易を強化した。
  工業品、農業品、鉱業品という広範な産品の輸入に高い
 関税を課した。
  その平均関税率は54.5パーセントだった・・
  マッキンリー法の48.7パーセントさえも上回った。
  史上最高の税率57%に達した。
  アメリカ製品や農産物に高い関税を課す国に対して、
 大統領がその国からの粗糖、コーヒー、茶などの輸入に
 相当の関税を課すことも法律的にできた。
  中南米諸国は関税の引き下げに応じた。
  この法律は、アメリカ大統領のマッキンリーが定めた。
  第25代アメリカ大統領のウィリアム・マッキンリーは、
 1897年3月4日に大統領に就任していた。
  マッキンリーは、大統領になると議会に互恵主義の原
 則を再び受け入れる様に求めた。
  そして、このディングレー法では、互恵条項が復活し
 た。
  ブランデー、シャンパン、ワイン、絵画、彫像につい
 て大統領は20%の関税引き下げを基に互恵的関係を拡大
 する協定を締結する権限を有していた。

1897年、ブラウン管の発明
  ドイツの物理学者のフェルディナント・ブラウンが、
 ブラウン管を発明した。
  最初のブラウン管(陰極線管)とそれを使ったオシロ
 スコープを製作した・・
  約100年後の2000年代になって、液晶ディスプレイ、
 発光ダイオードプラズマディスプレイなどのディスプ
 レイ装置が徐々に取って代わるようになるまで、このブ
 ラウン管は、テレビやコンピュータの表示装置として使
 われ続けた。

1897年、新渡戸稲造が、札幌農学校を辞職し、アメリ
 西海岸で療養生活に入った。
  稲造は、重症の神経衰弱と診断され、休養を取るよう
 申し渡されていた。
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1897年、「デナリ」・・アラスカにある山の名前である。
  北アメリカの最高峰である・・標高は6190メートル。
  アラスカに昔から住んでいた方々(インディアンの方
 々やエスキモーの方々)は、ロシア人が来る前から、こ
 のアラスカに住んでいた居た・・先住民の方々である。
  この方々の住む土地だった・・国だった。
  そして、アメリカ合衆国は、このアラスカをロシアか
 ら買った・・変な話である??
  もし、貴方の家に、貴方の見ず知らずの人間が来て・・
 そして、その後、「人間・A」が、そのあなたの家を「人
 間・R」から買ったと言って、貴方の家の所有権を主張さ
 れた時・・貴方は、どのように思われますか?
  まったく、この事態と同じ事が、このアラスカで起き
 ていた。
  アメリカ合衆国(人間・A)は、「アラスカはロシア
 (人間・R)から買ったから、俺のものだ」と、主張し
 た・・??・・嘘だ。
  そして、このアラスカの最高峰を、この先住民の方々
 =本当のアラスカの持ち主の方々は、「デナリ」と呼ん
 でいた。
  デナリは「偉大なもの」という意味で、ちゃんとした
 意味付けをしていた。
  だから・・当然、この山は「デナリ山」と呼ぶべき・・
  しかし、アメリカ合衆国は、1897年に、この時のアメ
 リカ合衆国の大統領であるウィリアム・マッキンリー
 ら名前を取って、この山に、この名の『マッキンリー』
 と名付けた。
  アメリカ合衆国は、土地を奪うばかりでなく、名前ま
 で奪った。
  (追伸)2015年8月31日になって、アメリカ合衆国
     「デナリ」を正式な呼称とすることを告示した。
      当然である・・土地の問題は、まだ、未解決・・
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  (今日の言葉)
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  題:中国へのゴマすりで「万一の災害備蓄であるのマスク」を送ってしまった・・
    町にマスクが無い理由は・・これ・・犯人は○○・・
    新型コロナウイルスの肺炎蔓延の恐れの緊急事態になっている日本であるのに・・??
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1720年12月、浦賀奉行所が、伊豆下田から横須賀(現:横須
 賀市西浦賀)に移転した(浦賀奉行所)
  浦賀への移転の目的は、幕府が最大の政策課題とした
 物価安定だった。
  物流の中継地として栄えた浦賀は、江戸湾の入り口に
 あり、積み荷や人を取り締まる「船改め」の拠点として、
 貨幣経済を支えていた。
  幕末には、「異国船対応」も役目となった。
  移転の当初の敷地は1700平方メートルだった奉行所は、
 1821年、4890平方メートルに拡張された。
  ペリーが来航した1年後の1855年には、6500平方メート
 ルになった。
  奉行1人、与力10人、同心50人だった体制も、江戸時代
 の幕末には、奉行2人、与力20人、同心100人に倍増され
 た・・それだけ仕事量が増えたのだった。
  1853年のペリー艦隊来航の以前にも、6回の外国船の接
 近がある。
  1837年には、日本人の漂流民7人を乗せたアメリカ商船・
 モリソン号が来て、奉行の太田資統(すけのり)は、幕府
 の「異国船打払令」に従って、近くの平根山台場から砲
 撃をして追い払った。
  この事件をきっかけに江戸幕府への批判が広がり、高
 野長英や渡辺崋山が捕らえられ、「蛮社の獄」が起きた。
  開国への動きが加速した。
  この事件の時の砲撃を、モリソン号の船長は最初、「
 祝砲だと勘違いした」。
  我々は歓迎されていると喜んだ。
  ペリー艦隊来航時は、その様子がかわら版で日本全国
 に広まった。
  禁止令が出ていたが、庶民は黒船見物に出掛けた。
  日本人は恐れおののいてなんかいない。
  「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず 」
 と心の中では笑っていた。
  (参考)上喜撰:じょうきせん、緑茶の銘柄(ブラン
     ド名)。宇治の高級茶。本来の銘柄名は喜撰で、
     その上等なものを上喜撰(あるいは正喜撰)と
     呼んだ・・お茶を四杯飲んで興奮したと??
  浦賀奉行所は話題の中心にあった。
  1868年、明治となって、奉行所は新政府に接収された。
  また、1872年、「船改め」の役目も終えた。
     ・
     ・
1883年11月、西周が、元老院の会議で、「局外中立を宣言
 するにはそれを実現するだけの軍備が必要だ」と述べた。
  「戦争は嫌だ。中立だ」などと甘い政策の野党が日本
 にあったが・・(今・現在も存在している党だが)・・
  それだけで戦争が避けられるのなら、世の中から戦争
 の一切が無くなる・・苦労はいらない・・
  それなりの国防ができていなければ、その様な宣言だ
 けでは「絵に描いた餅」に終わる・・
  この西周が演説した頃、最強な武力を持つロシアの艦
 隊が日本の長崎港に居た。
  しかも、このロシアは、また、武力を持つ中国・清と
 イリ紛争の最中だった。
  戦争となり中国・清が敗ける様なことがあったら、続
 けて日本も巻き込まれ、まったく軍事的な力のない日本
 はロシアの軍門に下る恐れがあるのを明治の要人たちは
 恐れた。
  西周は言う「断然に局外中立を守らば憂ふる無きに似
 たれども、単に局外中立を守るのみにしては足らず。
  必ず之を守るの軍備を要す」と言った。
  また、そうして中立を守ろうとしたって、中立を守る
 上での義務があった。
  「中立したって交戦国は海上交通を封鎖し、艦船の交
 通を遮断されたり、場合によっては船舶を捕獲されたり
 する。
  それを容認しなければならない」、また、「交戦国に
 軍事的に援助してはならない」また「軍需品を売っては
 いけない」また「交戦国へ金融的利便を与えてはならな
 い」「領域を交戦国が軍事的に使うのを、実力で妨げて
 はならない」など。
  だから、日本の中立を維持することや、シュタインが
 言った朝鮮の中立性を守ると言ったって、それなりの軍
 事力を持って大変なことに備える必要があった。
  そんな宣言だけで甘く済む様なものではないと・・
  また、実際に起き得ることであるが、歴史上でもあっ
 たことであるが、大国が我が陣営に入れと圧力をかけた
 場合、中立を守ることが出来るか?
  歴史上、中立を守れないという事例が、歴史上、多い。
  双方の陣営から働きかけがあったり、特に、軍事力が
 弱いと風前のさ迷う灯火の様になる・・
  その結果、戦争に巻き込まれる。
  今の日本の様な危うい周辺状況の中で、憲法論議もし
 ないで、また、国防の話しもしないで、国民を、実際は
 「危うい状況に置いて、逃げている政治」そして「国民
 に現状を訴えもしない政治」、その様な中に諦(あきら)
 めがあるのか?
  中国にゴマを擦る外交官の話を聞いたこともある。
  また、軍事的に押さえるアメリカも存在している。
  独立の立場に置かれていない状況下にある。
  リスクだけが増大している。
  そして、余談だが、今、韓国も中国へ近づいている・・
  核装備を持って毅然としているのは北朝鮮である・・
.
1894年3月29日、甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう、
 東学党の乱)
  朝鮮の全羅道で農民が蜂起した。
  東学第1世教主が、邪教を広めたとして処刑されたのが
 発端だったが・・
  閔氏政権の重税政策や、両班(リャンバン、韓国に今
 でもいる民を牛耳る者たち)たちの間での賄賂と不正・
 収奪の横行・・そして、アメリカや西欧列強の外国資本
 の進出による民衆の生活圧迫、朝鮮社会の腐敗から地方
 自治体の官吏も農民虐めをし、収奪行為が充満していた・・
  その様な状況から、政治的改革の要求に代わって行っ
 た・・
 1894年5月4日、農民軍が白山に集結し、甲午農民戦争
  再び開始された。
 1894年5月31日、農民が全州府を占領した。
  東学党の指導者の全琫準(ぜんほうじゅん)が発した
  呼びかけ、そして、その文を東学信者が国内に撒き、
  その呼び掛けに応じた農民が数万の軍勢となった。
  全羅道では、地方軍や政府軍を破った・・そして・・
  5月末、道都全州(チョンジュ)を占領した。
  朝鮮国王は、袁世凱(えんせいがい、中国・清の軍人、
  朝鮮政治に立ち入っていた者)の示唆によって中国・
  清に軍の出動を要請した・・清は、直ちに軍を出兵さ
  せた。
  (1885年4月に、日本と中国・清は、天津条約を結んで、
  この両国は、朝鮮から軍を撤兵させていた・・清は、
  日本を弱小国と軽く見るところがあり、この様な強行
  的な態度をよくとっていた)
 1894年6月2日、日本の公使館や居留民が、朝鮮へ出兵し
  た中国軍だけの中に、荒れる朝鮮の中に置かれる形と
  なった・・日本も保護のため派兵せざるを得なくなっ
  た。
 1894年6月3日、日本が、混成一個旅団と軍艦の派遣を閣
  議で決定した。
 1894年6月7日、中国・清へ、日本は天津条約第三款の規
  定に従って出兵することを通告した。
  清国も遅ればせながら出兵を通告した。
 1894年6月8日、中国・清の葉志超(ようしちょう)総督
  と、聶士成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋
  陸軍、歩兵約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸し占拠
  した。
  1894年7月24日時点で3880名に達した。
 1894年6月8日、ロシア公使が、天津で、清の李鴻章に、
  「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしてい
  る」とくぎを刺した・・
  そして、「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」と言
  った。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
  代理公使の小村寿太郎に「日本の派兵の必要を認めて
  いた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
  に従い、朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、「
  ロシアとは無関係だ」と言った。
 1894年6月9日、清国軍が、朝鮮の牙山(あさん)に上陸。
  (参考)牙山は、ソウルより南に85km・大田広域市
     り北北西65kmに位置している。
 1894年6月10日、大鳥圭介在朝鮮公使が、陸戦隊を率いて
  漢城府に帰任した。
 1894年6月12日、漢城(現:ソウル)近郊に、既に来てい
  た清国軍と、日本からの派遣軍が布陣した。
 1894年6月12日、共同撤兵、袁世凱と大鳥間でほぼ妥結し
  た。
  ただ、日本を圧迫し威圧的だった清国だった。
  華夷秩序(かいちつじょ)があった。
  (参考)華夷秩序:中国の皇帝を頂点とする階層的な
     国際関係を指す。
      古来中国にある自分たちは優れた文明を持つ
     世界の中心(中華)で、周囲は未開の野蛮人(夷)
     であるとの考え方に根ざす。
      清国の戦線詔勅に、「朝鮮ハ我大清ノ藩屏〔
     ハンペイ:直轄の属領〕タルコト200年余、歳ニ
     職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ…」とある・・
 1894年6月16日、日本の陸奥宗光外相が、中国・清へ共同
  で農民戦争の沈静化をしようと申し入れた・・また、
  内政改革も共同で行おうと提案した。
   そして、清国が合意しなくても、日本は単独ででも
  これを行いますと伝えた。
 1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を
  依頼した。
   ロシアには、南下して行きたいという「南下政策」
  があって、この調停依頼自体が問題だった。
   ロシアの南下政策を警戒していたイギリスは反対
  した・・日本を支持した。
   因みに、この時、ロシアは、「清国が、いずれ朝鮮
  を清国の一省に変えてしまうとの企(たくら)みが北
  京に存在するかもしれない」という懸念も持っていた・・
   さらに、「朝鮮の国内問題に対する清国の断固たる
  干渉」が気になっていた・・
   この様な状況から、朝鮮国王が、ソウル駐在のロシ
  アの代表に対して、朝鮮をロシアの保護下に置いてほ
  しいとの要請ともなっていた・・
   強引な清から離脱したいという朝鮮だった。
   ロシアには、この強い姿勢の清国とロシアとの公然
  たる衝突に至るかもしれないという懸念も生まれてい
  た。
   清と露間にも紛争の可能性が存在した・・
   朝鮮国王の側近に、外交顧問という資格でデニー
  いうアメリカ人が居て、朝鮮の利益を清国に対して有
  利に差配していた。
   また、朝鮮は、アメリカと、弱小の朝鮮軍に対し、
  朝鮮軍編成のためのアメリカ人教官の派遣について交
  渉などの要請も行なっていた・・
   このアメリカと、中国・清国などの存在が複雑さを
  増す要因だった・・
   これに、ヨーロッパ列強諸国も朝鮮に関わっていて、
  朝鮮は縮小された国際秩序の場だった。
   ロシアの南下を恐れたイギリスに支持されて、中国・
  清国軍の居る朝鮮に派遣された日本軍だった・・そし
  て、日本の提案が拒否され、緊張が高まって行く・・
 1894年6月22日、中国・清が、日本側の申し入れの一切を
  拒絶した・・
   日本政府は、対清国との初めての対決表明である第
  一次絶交書を送ることとした。
   日本は、朝鮮政府に対し清国と朝鮮との関係、つま
  り、「属国(朝鮮):宗主国(清国)」という宗属関
  係について問いていて、それに対して朝鮮側から日本
  に、「自らの国は自主国である」との回答を得ていた。
  (清国の強引なる清国軍の駐留状態で、朝鮮を属国と
  して扱おうとする不当な行動をとる清だった)
 1894年6月22日、清国の日本の朝鮮共同改革案の拒否に対
  して、御前会議で朝鮮内政の単独改革が決議された。
 1894年6月28日、日英間で条約改正交渉中のイギリス外相
  が調停に乗り出す・・日本の要請?・・
 1894年6月30日、ロシア公使ヒトロウォと陸奥とが会談し、
  「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵と
  いう希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と
  同時撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責
  めを負うことになる旨忠告する」と申し入れた。
 1894年7月2日、陸奥は、ヒトロウォに次の様に回答した・・
   「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていない
  し、反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたって
  いないのではないかと考える。
   日本政府は、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵す
  る」と・・
 1894年7月9日、中国・清の総理衙門総領大臣(外務大臣
  に相当)慶親王が、「日本の撤兵が先だ」としてイギ
  リスの調停案を拒絶した。
 1894年7月11日、伊藤内閣は、清の調停拒絶を非難すると
  ともに、強引なる主張ばかりをする清・・その清との
  国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議で決定し
  た。
 1894年7月12日、中国・清がイギリスの調停案も拒否し・・
  金玉均も暗殺するという行為をする・・
   その清との日清の会談も決裂し、小村公使が、清国
  政府に第二次絶交書を手交した。
   清の軍人・袁世凱は、朝鮮で画策して、朝鮮国王の
  名で清国の出兵を要請させ・・朝鮮は、自主独立して
  いるという状態ではない状態・・清は、表面は美しく
  して出兵しているが、実態は、朝鮮を操作する状況・・
   日清間では、撤兵問題も話し合われたが、宋主権を
  持つという意識が清は強く、話し合いは紛糾した。
   開戦せざるを得ない状況が出て来て、日本は、開戦
  に当たって、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・
  ロシアなどの関係各国に対し、清国に対する開戦を通
  告している。
   日本は艦隊をそろえようにも景気が悪く、予算が不
  十分だった・・長い間、希望がかなえられなかった・・
   しかし、景気が良くなると日本は艦を作って行った・・
  また、イギリスの指導も受けた。
   だが、日本は海軍国と言われるが、当時の日本は、
  海軍力に自信が無かった・・
 1894年7月17日、御前会議で慎重な審議を重ねられ、開戦
  がやむを得ないと確認された・・
   そして、最後通牒が送られた・・
   回答期限は、朝鮮に対しては7月22日、中国・清国に
  対しては7月24日とした。
 1894年7月19日、イギリスの第二次調停案への回答期限を、
  7月24日と清に通告した。
   日本が、中国・清へ、日本の手交した最後通牒の回
  答期限である7月24日を過ぎても、中国・清が、日本へ
  その返事もしないで、中国軍の朝鮮への増派をするな
  らば(それは、朝鮮に対する宗主国ぜんとした威嚇行
  為であるとともに、同時に)日本に対する威嚇行為(
  敵対)と見なす・・との内容の最後通牒を中国・清へ
  送った。
 1894年7月19日、朝鮮の望む自主独立と、宋主権を行使し
  主張する清国・・「断固なる処置を施すの必要あり」
  の訓令を受けた大鳥公使は、朝鮮が清国と結んでいる
  諸条約の廃棄を提案した。
 1894年7月20日日清戦争の原因について開戦をやむなし
  とした外務大臣陸奥宗光は・・、
   「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争
  はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と
  回想している。(『蹇蹇録』岩波文庫
   この様な無視の行為をする中国・清の態度であるな
  らば、陸奥宗光外相は、回答期限の7月25日以降は、清
  国の軍艦などへ日本が攻撃をしても、「外交上の問題
  はない」の旨を日本海軍へ伝えた。
   日本は、今まで自重し、清の強引な行動を静観して
  来たが、また、影で工作する清の態度を静観して来た
  が、この時点では、はっきりした毅然たる態度を示す
  という方針に替わった。
   朝鮮に駐在する大鳥圭介公使が、「中国の冊封体制
  による宗属関係の破棄・その他を要求した」。
   この日の午後、大島公使は、この様な状況になって
  は、毅然たる態度を示すべきとの方針において、自主
  独立の国としてありたいと日本へ伝えている朝鮮に対
  し、清国の宗主権を認めさせられている『中朝商民水
  陸貿易章程』を廃棄をしなさいと伝えた。
   また、朝鮮が希望する「自主独立を侵害」する清軍
  の撤退について、朝鮮の考え方を7月22日までに伝えて
  もらいたいと伝えた。
 1894年7月23日、日本は、清軍撃退依頼を出すようにと大
  院君へ伝えた。
   朝鮮政府内にある過去からの清国の武力行使と圧力
  に屈し、清国の属邦体制を止むなく認めて受け入れて
  いる派(親清派)と・・この強圧的な清に対して、日
  本に助けを求める親日派が朝鮮政府内にあって・・、
   親日派であった金玉均が、清国によって暗殺される
  如く、陰に陽に中国は強引な行動をしていた。
   その様な清の属邦体制を止むを得ず受け入れている
  現政権の王政派(閔妃)に対する親日政権の大院君に
  清軍撃退依頼を出すようにと伝えた。
 1894年7月23日、朝鮮へ増派する清、その行動を止めよう
  と、連合艦隊佐世保港を出港した。
   この日の午前11時、強硬に陸兵増派をしようとして
  いる清国の行動を止めさせようと、海上封鎖の任務を
  帯びた伊東祐亨中将が率いる連合艦隊が、佐世保港
  ら朝鮮半島京畿湾へ向けて出港した。
 1894年7月23日、日本が朝鮮王宮へ軍を派遣し、午後5時、
  大島旅団長が朝鮮国王に面会した・・
   一人も死者が出るという行為ではない・・
   そして、この日の内に幕営地に引き上げた・・
   襲撃でもなければ、また、日清間の交戦も無い行動
  だった・・
  午前零時30分、公使より電報で「作戦通り実行せよ」
  と・・行動部隊の第六中隊が、迎秋門が破れなかった
  ので、囲壁を越え、内部より鋸と斧で門扉を開く(午
  前5時頃)第七・第五中隊が王宮に入る、そして、光化
  門・建春門も内部より開門した。
   この間、守備の朝鮮兵は抵抗する者もなく、また、
  皆、北方へ逃走した。
  午前4時20分~午前7時半、双方から銃撃が起きた。
   抵抗した一部の朝鮮兵は、北方の王宮囲壁を出て、
  白岳の方向に逃走した。
   国王は雍和門内に居て、山口大隊長が、日本軍兵を
  門内に入れない代わりに韓兵の武器交付を要求した・・
   承諾された・・
   大隊長が国王に拝謁し、「我が兵士は玉体を保護す
  るために居て、決して危害の及ばざるを期すべし。殿
  下幸いにこれを諒せよ」と・・
  (参考)諒:りょう、おもいやる。明らかにする。ま
     こと。
  午後5時、大島旅団長が王宮に入り、国王に面会・・
  夕方、日本軍は歩兵第二十一連隊第二大隊」に「王宮
  の守備」を命じたほか若干の部隊を王宮周辺要地に留
  め・・午後5時から午後6時の間、幕営地にひきあげた。
   これは、公使館と旅団が協議して計画していたこと
  だった・・この行為に対し、列強諸国からの批判は無
  く、誰かが殺害されたという事でもなかった。
   しかし、日本政府からはこの様なことをするなとの
  指令が出ていた・・しかし、この行為は、朝鮮の人々
  の反日意識を高めた・・この点からも、すべき行為で
  はなかった。
   この様な行為は中国・清もしていて、朝鮮の人々は
  清に対しても反感を持っていた。
   しかし、この後、この行為で王宮内の財貨宝物が略
  奪されたと、「してもいない行為を、した」とプロパ
  ガンダ(嘘宣伝)に使われた。
   清国の宋主権行使に苦渋していた朝鮮を救うとして
  もやり方が良くなかった。
   天皇陛下も、この事件に対し、また、武力行使に対
  し疑問を御明示された。
 1894年7月25日、高陞号(こうしょうごう)事件が起こっ
  た・・
   日本への返事を無視して、朝鮮への兵員増強をしよ
  うとしている中国・清だった・・
   清国の回答無視の決定により、清国軍の兵員増強・
  増派を確認した時点で、その行動阻止の行動がとれた・・
  1894年7月24日、第一遊撃隊は、牙山湾内にて清国軍艦
  「済遠」「広乙」が護送する陸兵1000名を乗せた輸送
  船「飛鯨号」の船団と出会ったが、回答期日前であっ
  たため、そのまま素通りさせた。
   そして、回答無視が確定した7月25日が来る。
  1894年7月25日午前10時8分、清国陸兵1100名(乃至1500
  名)が乗船するイギリス船籍商船「高陞号」は、日本
  艦艇の指示を受けて豊島沖に停船した。
  7月19日の日本が清国へ出した最後通牒で、日本艦隊に
  よる朝鮮西岸の海上封鎖を予期した清国直隷総督兼北
  洋大臣の李鴻章は、イギリス商船をチャーターして陸
  軍兵を搬送させる策を取っていた。
   第一遊撃隊司令官・坪井航三少将は、指示を無視し
  た「済遠」の追撃に向かった為、「浪速」艦長・東郷
  平八郎大佐が、このイギリスを敵に回しかねない難局
  に当たる事になった。
   東郷大佐は、浪速を高陞号から900メートル離れた位
  置に停留させると人見善五郎大尉に高陞号の臨検に向
  かうよう指示した。
   人見大尉は、カッター船に乗って高陞号に赴き、武
  器を手に殺気立つ清国兵達に囲まれた中で、高陞号船
  長ガルス・ウォルズウェーと面談した。
   浪速も警戒態勢をとって、砲門の狙いを定めていた。
   清国兵も迂闊には手を出せなかった。
   人見大尉は、高陞号の船籍と目的を尋ねて「英国ロ
  ンドンのインドシナ汽船会社代理店ジャーディン・マ
  セソン社所有のイギリス船籍商船である事」と、
   「清国政府にチャーターされ陸軍兵1100名と大砲14
  門、その他を朝鮮・牙山港へ搬送する途中である事」
  を確認した。
   続けて、高陞号を浪速に随行させるよう求めるとウ
  ォルズウェー船長は承諾した。
   人見大尉は、浪速に帰還し、その旨を東郷大佐に報
  告した。
   東郷大佐が、自艦浪速に続くよう英文の手旗信号を
  送ると高陞号から「重大事態発生」の信号が返って来
  た。
   清国兵の反抗が起きていた。
   その反抗を読み取った東郷大佐は、再び、人見大尉
  を高陞号に向かわせた。
   そして、可能ならウォルズウェー船長を浪速に移乗
  させるよう指示した。
   しかし、清国兵は、イギリス人が船を降りるならば
  殺害すると脅迫した。
   ウォルズウェー船長は、高陞号を天津・大沽港に引
  き返させるという妥協案を提案した。
   それを受けた東郷大佐は、まず、船長に高陞号から
  離れるようにとの英文信号を送った。
   返信は、「こちらからは離れられない状態だ、そち
  らから船を送ってもらいたい」だった。
   東郷大佐は、「それは出来ない」と信号して、再び、
  「船を離れるように」と送信した。
   この交信は、高陞号が清国兵に乗っ取られていて、
  叛乱状態にあって、その非戦闘員の資格を喪失した確
  証を得る為だった。
   高陞号の船上の清国兵は騒ぎ出していて、すでに、
  停船してから4時間ほどの時間が経過していた。
   東郷大佐は、攻撃の警告を発した。
  1894年7月25日13時45分、東郷大佐は、浪速のマストに
  攻撃警告の赤旗を掲げた。
   だが、高陞号船上はざわつくばかりで、反乱状態に
  あり、返信も無い状態だった。
   混乱などが起き、状況の改善は無く、進展無しと判
  断した東郷大佐は魚雷発射を命じた。
   魚雷接近で、清国兵が動揺し、その隙を突いてイギ
  リス人船員達が海に飛び込んだ。
   その状況を見て、東郷大佐は、すぐさまカッター船
  を出して救助に向かわせた。
   魚雷は不発に終わった・・
   清国兵たちは、海を泳ぐ船員達に銃撃し始めた・・
  そのため、複数名が殺害された。
   この様な中、日本水兵は、ウォルズウェー船長を含
  むイギリス人船員3名の救出に成功した。
   その後、東郷大佐は、やむなく右舷砲2門の砲撃で高
  陞号を撃沈した。
   この高陞号事件は、この後、日英間の問題となった・・
   しかし、結論的には・・東郷平八郎大佐を評価する
  声が上がった。
  1984年8月4日、イギリス政府は、長崎に英国海事裁判
  所を開き、8月7日に結審したが・・、
   この裁判は、ウォルズウェー高陞号船長に過失が無
  い事を証明するものだった。
   続いて、上海において開廷された英国海事裁判では、
  8月17日の結審宣告で、日本軍艦の行為は正当であると
  の判決が下った。
   日本政府に対する賠償請求を放棄する勧告がイギリ
  ス本国政府に伝えられた。
   イギリス政府が、この勧告を受け入れた事で高陞号
  事件は決着した。
   その後、国際法を熟知し、厳格な判断を下した浪速
  艦長・東郷平八郎大佐を評価する声が上がった。
 1894年7月25日、豊島沖(ほうとうおき)の海戦
  豊島沖で日清の武力が衝突し日清間が戦争状態になる。
 1894年8月1日、日清両国は宣戦布告をした。
   列強各国は、日清戦争で、日本が敗北するだろうと
  予測していた・・それだけ、清の力は強く、日本は弱
  小とされていた(長崎での事件などで清に馬鹿にされ
  ている日本だった)列強諸国は、「アジアの中心は中国
  だ」と見ていた。
.
1895日4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結された。
  内容に、「清国は朝鮮国が完全無欠な独立自主の国で
 ある」ということを中国・清国に認めさせた。
  そして、「朝鮮国の独立を侵す清国へ行って、そして、
 行なう貢献典礼を全廃する」・・
  中国・清の朝鮮への属国行為の冊封行為を無くさせた。
  しかし、ロシアが、この時、日本が割譲させた遼東半
 島を三国干渉して返還させる。
     ・
     ・
     ・
2017年、アメリカの卑劣な差別の白人至上主義
  アメリカには、今・現在でも、盛んに白人至上主義を
 主張する輩たちが横行している。
  その一つが2017年頃から「Q」と名乗る輩たち・・
  白人至上主義礼讚を主張する者たち・・
  去年、この白人至上主義が影響していると指摘された
 アメリカのテキサス州などで銃撃事件が、多数、起きて
 いる。
  犯行予告が3件行なわれた。
  掲示板などに犯行予告がなされた。
  50人以上という驚くべき多数の人たちが犠牲になって
 いる。
  この様にアメリカは遅れた状態になっている。
  また、アメリカと同じキリスト教国のニュージーラン
 ドでも悲惨な銃を使った事件が起きている。
  キリスト教会(ニュージーランドクライストチャーチ)
 で銃の乱射事件が起きた。
  犯行声明が投稿された。
  自分の言うことを聞かない者たちは「射殺してしまえ」
 である。
  キリスト教が洗脳する「異教徒は殺せ!」のキリスト
 教の教義そのままである。
  アメリカに今・現在もあるKKKという「有色人種の
 殺人集団」は、夜に白装束を着て、頭から顔も皆隠し、
 丘の頂(いただき)や森の中で、キリスト教の十字架を立
 て、それに油をかけて燃やし、行動の正しさを確認し合
 う・・火は赤々と天空に燃え上がる。
  こんなことを今・現在でもアメリカでやっている。
.
2020年3月、日本の新型コロナウイルスによる肺炎蔓延の原
 因の一翼となった「兵庫県の中国への100万のマスク
 の寄付行為」・・
  これによって日本で製造するマスクが国内に出回らず
 「皆、中国に送られ続けた」。
  日本国内では、何日、行っても「マスクの入荷は未定
 です」と言われた。
  わずかになったマスクは、ネットでびっくりする値段
 が付けられた。
  この様な原因を作ったのが、いつも「中国にゴマを擦
 ってばかりいる自民党二階俊博議員」・・
  この議員発の馬鹿々々しい行為・発言から始まった。
.
2020年3月5日、中国へのゴマすりで万一の災害備蓄のマス
 クを送ってしまった・・
  町にマスクが無い理由はこれ・・
  新型コロナウイルスの肺炎蔓延の緊急事態になってい
 る日本であるのに・・??
  各市町村には、災害備蓄のマスクが用意されていた。
  しかし、自民党二階俊博議員が、中国にマスクを100
 万送ると言ってそのマスクをかき集めて送ってしまった。
  兵庫県井戸敏三知事(いど としぞう)が、この県
 だけで100万枚のマスクを送ってしまった。
  東京都は10万枚を送った。港区は5万枚。川崎市が8万
 枚。厚木市が2万枚。群馬県が2万枚。太田市が1万枚。水
 戸市が5万枚。日立市が2万枚。常陸太田市が約2万枚。阿
 見町2万枚以上。三条市10万枚。加茂市7万枚以上。柏崎
 市が8万枚以上。あわら市3万枚。由山梨県2万枚。富士宮
 市2万枚。富士市1万枚。沼津市1万枚。名古屋市10万枚。
 豊橋市1万枚。枚方市2万枚以上。池田市2万枚以上。日向
 市約3枚枚。姫路市1万枚。明石市1万枚。加古川市1万枚
 以上。伊丹市1万枚。東近江市1万枚。彦根市1万枚。鳥取
 県8万枚。境港市5万枚。島根県2万枚。松江市5万枚。出
 雲市3万枚。倉敷市2万枚。岡山市2万枚。広島県8万枚。
 広島市3万枚。庄原市1万枚。徳島市1万枚以上。宇和島市
 1万枚。新居浜市1万枚。探し万枚。唐津市1万枚。長崎県
 と長崎市10万枚以上。大村市1万枚以上。熊本市5万枚。
 大分市3万枚。宮崎市1万枚。薩摩川内市3万枚。鹿児島市
 約6万枚。沖縄県1万枚。などなど・・
  万一の時に使おうと用意していた災害備蓄のマスクを
 みんな中国へ送ってしまった。
  二階氏に言われた東京都は、防護服を10万着送ってし
 まった・・これから起きる万一の事態にどうするの?と
 問う声が多い・・
  また、日中友好を標榜している組織が100万枚以上の
 マスクを送ると声明を出し、日本で生産するマスクをせ
 っせと中国へ送り続けている。
  これでは日本国内に出回る訳はない。
  薬局やコンビニなどマスクを売る店頭にはマスクがい
 つ入って来るか見通しが立ちませんという状態で、日本
 人が使うマスクはまったく手に入らない状態になってい
 る。
  中国にゴマを摺って、日本人がいざという時に使う分
 まで送ってしまった。
  こんな無責任な国や地方自治体の姿勢で良いのか?
  日本の医療や介護の現場はマスクが非常に欲しい部署・・
  その部署にマスクが入って来ないので・・何で中国に
 送ってしまうの?という声が上がる。
  朝日新聞の2020年2月8日に、香川県が中国にマスクを
 送ってしまって県民から苦情が出ていることを報じてい
 る。
  県民が、まったくマスクが買えないで感染防御手段を
 奪った県を批判している。
  そして、今、日本が、新型コロナウイルスを指定感染
 症に指定したが、これで、外国人の感染者の治療費が無
 料になった。
  これで、日本が安全なので外国人(中国人など)の富
 裕層が日本に大勢入って来ているという。
  中国に甘い日本政府の姿勢が見える。
  除菌シートまで続々と中国へ送っているという。
  習近平主席の来日が延期になったが・・いつ?、この
 新型コロナウイルスの蔓延が収まるかが不明?
  東京オリンピックパラリンピックが開催される時、
 完全に開催できるという判断が出来る状態になるか?
  この開催できるという見通しは、「まったく暗い」と
 言える・・
  無理に開催すれば、再度、日本発の「中国生まれの新
 型コロナウイルスの肺炎」が、日本発で、世界中に蔓延
 させることになりかねない・・
  東京オリンピックパラリンピックも開催延期をする
 べきである・・
  2021年開催の1年延期にするべきである。
  その判断は5月・・
  あと60日間で収まる訳はない・・
  見通しが立つわけはない・・
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